寺報 清風











 22代の住職・了憲は昭和32年に還浄。12歳までのことですが、私が僧侶としての養育を受け、入門のご縁、そして基礎的な生活・姿勢といったものは「祖父」からによるお育ての影響だと改めて思う。

 祖父が生前していた戦後のころの様子。隠居部屋の前の小さな庭には、中央に池があった。色とりどりの魚が気持ちよさそうに泳いでいた。渡りの飛び石を越えて右に折れ、くぐり戸を抜けると庫裏が位置していた。庫裏の門扉の前には2本のでっかい“大葉松”がまっすぐ空に向かって、互いに成長を競い合っているかのようにあった。

 池の端には棚が設けられ、多くの老木の“さつき”が並べられていた。開花の頃には同好の仲間が多く訪れてきた。ぶどう棚もあり、収穫前の房に虫除けの白い袋がかぶさっていた。しかし果実を待ち望んだが、ついぞ美味しい葡萄の実を口にすることはなかった。冬になると軒に吊るした「ゆべし」が寒風に晒されていた。シイタケ菌を撃ちこんで栽培もしていた。

 真っ黒に煤けた柱に、土間・クド・板床、破れかけた障子戸の古めかしいガタガタの庫裏があった。いつもの生活の場だ。対して、祖父の居住する小部屋は清洒な造りであった。ガラス戸が嵌まり採光がよく、畳には“縁”がついていた。廊下の板が“榑縁”張りであった。柱は“面取”の杉が使われていた。幼少の頃の風景を思い起こしている。(その後の伊勢湾台風の大被害で、すべての景色は一変したが)

 行年73歳、2月26日が命日。昭和32年、祖父の葬儀を前にして、本堂正面・御拝には「火屋」が設置され、月が変わった1日に“門徒葬”が盛大に勤められた。春になったといえこの日は、ボタン雪がちらつき肌身にしみる寒さの中で進行していったことの記憶が蘇る。喪に服した父・研学は、見るからに薄地で寒そうな装束を着用、足元は素足。藁草履に、降りしきる雪が融け、零滴に濡れた裸足があったように思う。喪主(海部郡・徳念寺から養子)ともなると辛いものだなあと、半世紀前のシーンである。

 その時が小学6年であったから、祖父(豊明・西蓮寺から養子)との関わりは晩年の一時期しか知り得ない。思い起こすと、隠居部屋に行くにはいつも緊張があった。抱っこしてもらった、おふざけで戯れたなどといった場面は思い浮かばない。家にあっても祖父だけは常に格別扱い。入浴はまずもって祖父。後にしか誰も入れない。朝夕の食事の箱膳、お櫃を部屋に届けなければならない。「まず廊下の雑巾がけ、済ませてから朝飯を」「履物はきちっと揃えなさい、廊下を走るな」といった叱責は祖父との関わりの中でしつけられ、教わったように思う。

 大正14年に「徳風幼稚園」を設立。この頃にはまだまだ稀有のこと。従って祖父にはまず「園長」として顔があった。厳格な面影は、時に“髭”をはやすことで更に助長した。小柄であっても存在はとてつもなく大きなものだった。人柄からして、ごく当然のように地区の仏教会長や、また方面委員等に長年あたっていたようだ。

 かつて拙寺から、月刊宗教誌『徳風』が長く刊行されていた。明治の中期から了憲の父である21代の住職・祖住(刈谷・正覚寺から養子)が当初に発刊。全国規模の読者が事業を力強く応援したと伝え聞いている。その『徳風』は、今でいえば『PHP』、または本山が発行している月刊誌『同朋』に匹敵します。この寺報『清風』を年5、6回の発行で四苦八苦している私からすれば、この種の定期刊行物が、いかに大変なことかは容易に想像できます。当時に出版された雑誌の中にあっても、『徳風』が一級品であることは間違いない。激動の時代の中で精神に、思想に書物を通じて“真宗”を、また“仏教”を強く生活の中に提言していました。中途の大正期から、祖父が受け継ぎました。幼稚園設立時、名称を“徳風”と命名した由縁となりました。

 残念なことに雑誌『徳風』は発行元であるにもかかわらず、残部がごく僅であること。現在お持ちの方、保管されている方々を探し続けていますが、これが遅々として進まない。多く集まれば、復刻することも検討しているのですが…。『徳風』に原稿をお寄せいただいた執筆者、仏教学者たちの揮毫した「書」が多く残っています。現在住んでいる庫裏の襖という襖すべてに、それらの諸先輩の“筆の跡”を惜しげなく貼った。折に触れ、そこから気づかされる強い精神を眺め、楽しんでいる。

 怖い爺さんも時々の来客の前では一変して慈愛に満ちた、おだやかな顔が見受けられた。私は5年生のときに、祖父に引かれて“本山・東本願寺”に出かけた。初めて遠方に。列車に乗って泊りがけでの旅だった。坊さんになるとての「得度」を受けるためでした。

 受式の前日、京都で生まれて初めて「床屋」さんに入った。そこで剃髪させられた。その後坊主頭になった顛末を訊ねられ、しばらくは体裁悪く気恥ずかしかった。式の後、京都駅前の食堂で「カレーライス」を食べさせてもらったことも忘れられない。たぶん金を払って外食した体験、これも初めてであったように思う。そのときのカレーが絶品であった、皿まで舐めたこと、今もって脳裏に残っている。

 ふり仮名がついていない『三部経』の読法習得は、漢字ばっかりで小学生の私には大層ハードルが高かった。練習も祖父の顔を見るのもいやな時期があった。だが叩きこめられた。心配した『読経試験』は、祖父の顔でなんとかクリアーできた。

 小学校卒業の時、学校で辛いことを指示され、大ショックを受けたことがあった。私に人生最初の難題が与えられた。まもなく中学に進んだ直後、今度は大変な失敗をしでかした。苦しみが鬱積した胸のうちを誰かに届けたかった。祖父ならば聞いてくれよう、相談をと思ったが、既に祖父はこの世にいなかったのだと悔やまれたこと。残念至極であったこと、今にしても強く思い起こす。だが代わりに親の耳には届けられなかった。父親には一蹴されそうで、また親に負担をかけるのがいやだったと判断したように回想する。

 50回忌の“年忌”は春を待ち望む本年の2月下旬、感無量の中に勤めた。法要に引き続き行徳寺さんの“法話”を聴聞させていただいた。その場には、祖父を慕う多くの関係者に着座いただいた。

 私は、祖父の法名を使ってこの寺報を“清風”と題してきた。

 この後も時に躓き、悩んだりした折、姿なき祖父=清風院釈了憲に問いかけ、無言の中にも歩むべき方向を示唆いただけるものと捉えている。厳しくも優しく励まし続け、仏にも似た祖父のまなざしが偲ばれてくる。






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2006年3月号

清風院さん
発行所
真宗大谷派 称念寺
発行人 住職 伊勢徳