寺報 清風










 彼岸とは、この娑婆(此岸)に対して、仏国土を指す。彼岸は、英語では「The other shore(向こう岸)」と訳される。誰もが還るべき処(西方浄土)の意となります。

 昨今、米アカデミー賞外国語映画賞を受賞した映画『おくりびと』の原作(『納棺夫日記』)を著した青木新門氏曰く、「死を忌むべき悪としてとらえ、生に絶対の価値を置く今日の不幸は、誰もが必ず死ぬという事実の前で、絶望的な矛盾に直面することである」と。

 願いや望みは人それぞれであるが、有無や損得の価値観でしか生きることの幸せを求められない人間が、老病死の事実から目を背け続けることの厳戒が絶望であるのでしょう。自他の老病死の痛みをも、一人ひとりが光り輝くいのちの一部として、有り難く受け入れることができないことに、古釈尊が教えを説かれた根源がある。

 父母より生を受け、父母はそれぞれの祖父母によって、さらに遡って連綿として続く、いのちの流れの中で私も生を賜った。加えて周りの人や社会、そして幾多のご縁によって今の日常があると言えます。しかしその先は?生きとし生けるものは、死後一体どこへ行くのか。

 元検事総長(伊藤栄樹)は『人は死ねばゴミになる』と言った。ベストセラーになった本です。病気と懸命に戦った末の結論から題名にしたという。また、近いところでは『千の風になって』という歌が流れた。残された人に対し「(私は)死んでなんかいません」、風や雪、鳥や星となってあなたを見守るのだ、と。死の事象そのものをオブラートで包み、安らぎを得ようとした歌詞でもある。

 身近な人の死を前にした悲しみや失意は共通であろう。アメリカでの葬儀は、先に仏教式、後半はアメリカ型という2部構成でした。前半には厳粛におつとめをして、英語版『白骨の御文』を聴き、そして法話を耳にする。後半は雰囲気をガラッと変え、いわゆるお別れ会にと続く。面白いエピソードや笑いを強調した弔辞、故人の好んだ音楽を流す、親族も楽しかった思い出を語る。ところが明るくしようとすればするほど、重苦しいお別れ会になってしまう場面にも多々出くわした。

 臨終、死、別れは遺族にとって悲しみと辛さが圧し掛かる。さらなる止めは「故人は天国へ行き、そこで幸せになろう」、「この先も天国から私たちを見守ってくれよう」との言葉で終わる。現地の人々の心が精一杯であることは解る。だがこの信仰にはいつも空虚さを感じた。死後を、キリスト教用語の「天国」と表現することにはしっくりいかない。

 亡くなった方を「仏さん」と呼ばなくなったのはどうしてであろう?とも思う。死は、もっとも厳粛な縁であり、「彼岸」も生きるべき方向性を問うているものではないでしょうか。

 ハワイではやたらとトカゲが多い。家屋の中でも、蜘蛛や害虫などを食べてくれるので、邪険に扱うことはない。結構可愛いものです。天井や壁をヒョコヒョコ移動するトカゲ君は、家族に楽しい語らいをもたらしてくれました。夜「チチチ・・・」と鳴く声も良い、ペット同様の存在であった。

 ある時、当時3歳であった長女が、死んでから乾いて硬くなったトカゲの死骸を見つけた。可哀そうだと大層悲しんだ。じゃあ一緒にお葬式をしてあげようと、本堂でお線香を焚いて手を合わせ、後に庭の花壇に埋めました。すると「あのトカゲはどこへ行くの?」と聞くので、私は率直に「土にかえるんだよ」と子供に教えました。私の「かえる」という言葉からか、長女が「あのトカゲさん、帰ったらお母さんがお帰りなさいって言ってくれるのかなあ」と言うのです。

 私はハッとして、子供の真っ直ぐな感性に驚いた。小動物のいのちにも、子の幸せを願ったトカゲの母の存在があり、図り知りえない歴史の歩みと、依るべき処、還るべき世界を示唆されました。

 自己中心の生き方からは「死んだら終わり」と結論づけもしよう。頭で考えれば、いのちを終えれば後の意味はない「ゴミ」となりましょう。その絶望を越えるには「生まれ変わり」を当てにでもするのでしょうか。しかし、全ての人はつながりのなかで生き、生かされてあるものです。

 無常なる人生のどんな境遇も、時に喜び恨みこそすれ、かけがえのない、支え支えられてきた歩みです。あなたもわたしも、何時かはいのちを終えるべき存在であるからこそ、時に虚しくもある毎日が大切であります。

 大切な人が亡くなった後に、出遇い直すということもあります。命日におまいりする、法事が勤まったとき、残された側の私が手を合わせます。また、あの時はこうしておけば良かった、こんなことを教えてくれた、様々な思い出を抱えて新たな生活が始まります。今生きていればこんなことを言ってくれるか、との思いにも至ります。

 自我の強いこの私のことです。たとえ日常では意見の違いやすれちがいから、本当に分かり合えることがなかった関係性にも、お念仏を通せば、新たな光明も差します。阿弥陀仏が、私たちの人生に願いかけたことを知り得ずしても、亡き人からの「問いかけ」は、生涯傾聴するに値しましょう。

 私たち一人ひとりが心底求め、また今は亡き人から願われている歩みを、毎日の生活にどういただくのか、この彼岸法要を機縁として尋ねたいものです。


 子の母をおもうがごとくにて 衆生仏を憶すれば
  現前当来とおからず 如来を拝見うたがわず (『浄土和讃』)




真宗本廟 (東本願寺)
 
本山(京都)では、2年後の御遠忌法要に向けて、修復がおよそ5年の長期にわたりなされてきた。世界最大の木造建築の大工事は順調に進捗し、まもなく完了の運びとなります。この夏8月3日には工事竣工式が、秋9月30日には御真影還座式、11月20日には御影堂御修復完了報告法要など、式典の期日が発表されました。
 彼岸の帰路 約束の子を 肩車

東本願寺の至宝展
 
御影堂の御修復の工事完了を記念し、朝日新聞社と共催で「東本願寺の至宝展」が全国主要都市でスタートした。本廟(東本願寺)の伽藍はこれまで4度の火災によって両堂等が焼失するなど、波乱に満ちた歴史を歩んできました。現・御影堂(明治期に建立)の再建に関する資料、宝物、美術品等が一般に公開される。名古屋地区は今秋、会場は松坂屋にて。本廟と大谷派の信仰の歩み、そしてその激動の歴史に触れられるでありましょう。 
     私たちは、ほとけの子供になります
     私たちは、正しい教えをききます
     私たちは、みんななかよくいたします
 彼岸前 寒さも一夜 一夜かな








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2009年3月号

道 すでにあり 西方に
発行所
真宗大谷派 称念寺
発行人 住職 伊勢徳