寺報 清風













 2月中旬に東南アジア唯一の内陸国ラオスを初めて旅した。ラオス北部の古都ルアンパバーンの寺院を訪ね、その先の山岳地帯を目指すことにした。早朝バックパックを担ぎ出発、ベトナムのハノイを経由して同日の夕方過ぎに首都のビエンチャンに到着。タクシーに乗り宿へ向かう途中、特徴的な鋭角の屋根が厳かな本堂のある寺院がいくつも見られ、東南アジアの仏教国へ来たことを実感した。

 まず半袖に着替え、メコン川沿いの夜市を見学し、そのまま歩いて街中を散策する。そうして街とその歩き方、雰囲気や匂いを体に染み込ませていくのだ。路上で待機する多くのトゥクトゥクの運転手のうち、歩道脇に腰掛け私から声を掛けた若者、ジョアンと知り合う。何故彼かといえば、見た感じや顔つきとしか言いようがないが、誰も知らない国でその運転技術だけでなく、その他諸々信頼できる地元の人がいれば心強い。21歳で独身の彼とは以後互いに空いた時間は共に過ごし、仕事の休みが取れたら自費で次の街まで一緒に来る予定だったが忙しく、しかしその後も電話で私の旅の安否を気遣ってくれた。

 初日の夜は彼に案内してもらい、ビエンチャン市内で数件飲み回った。アルコール度6.5%の黒ビアラオ(1瓶約120円)が美味い。欧米の白人、中東、黒人、インド人など様々な人種が入り混じるバーでは日本人は私のみでジロジロ見られるが、だいたい今回の旅の途中にも到着したばかりの村でラオス人と一緒に路上のテーブルを囲み、歓談しながらビール片手に夕食をご馳走になる日本人旅行者など私くらいのものだ。

 逆に数日間は欧米の旅人達と行動を共にしたが、そうした縁のおかげで旅の幅が大変広がったことは有難かった。元外資系銀行員、5ヵ国語を操る者、アフリカ在住の異人種カップルに未成年バックパッカー、人種としては独仏伊米に私であった。旅の最終日にはルアンパバーンで再会し、洒落たフランス料理屋でのジャム系(即興演奏)ライブに誘われ、街中の旅行者たちが路上にまで立ち見するなか中央の席でワインを飲ませてもらった。

 さて、ビエンチャン2日目は朝早くから仏舎利(釈尊の骨)が納められている黄金の塔タート・ルアンと16世紀に建立されたシーサケート寺院へ参詣した。昼からはジョアンと街の喧騒を離れ郊外のターアン村の川沿いのレストランへ。川魚の丸焼きピリ辛あんかけ、豚肉、野菜等をつまみ酒を酌み交わし、夕方にはその筏状の座席ごと上流に向かい自然な川の流れと共に帰ってきた。ラオスらしいゆっくりした時の流れを体感した。このシフトが結構大切で、実はレストランでもサービスでも日本人ほどせっかちな人種は世界中どこにもいない。そのままの感覚で腕時計を見ながら旅するのでは、イライラしたり自分だけズレてしまうのだ。

 アジアの屋台や庶民の味は毎度の愉しみで、次の日にジョアン達と路上で食べたラープ(肉や魚を香草と炒める代表的ラオス料理)だが、これが牛の生肉のもので、麺、揚げ物、焼き物等、色々試した全工程を通して最も美味しかった。主食のカオニャオというもち米を片手で握り、ラープの汁に浸して手で食べるのがラオス流だ。全体的に辛い料理が多かった。

 3日目の午後から北上し始め、国道沿いの村ヴァンヴィエンに1泊、世界遺産都市ルアンパバーンに1泊、私は更に深い密林のなかワゴン車で4時間ほど北上し、ノンキャウという峡谷の集落まで来ていた。この先のムァンゴイという村までは道がなく、その交通手段がメコンの支流であるナムウー川を航行する小型ボートのみで、さすがに疲れ村のバンガローでは蚊帳のなか深い眠りについた。ムァンゴイでは車のない社会を目の当たりにし、共同体としてのその山村の豊かさに感動した。小川には簡素な手製の小型発電機が備え付けられ、中央の一本道を中心にして老若男女が関係性を密に、活気ある日常生活が成り立っていた。囲いのない路上のニワトリは所有者が決まってないのであろう。境界線を持たないことで人は共に生き合うことができるのだ。

 解脱の光輪きわもなし 
 光触かぶるものはみな
 有無をはなるとのべたもう
 平等覚に帰命せよ
   「浄土和讃」

 仏の光はその境界の辺際(線引き)がなく、
 そのはたらきに触れた者は皆、
 自分だけが正しいという勝手なあり方を教えられ、
 念仏申し生活していくことが大切です。
  (若院 意訳)

 ムァンゴイから更に奥の山村ファイボーへは徒歩でしか行けない。途中にある洞窟を覗き、丸太の橋を渡ったり、あるのかないのかわからないあぜ道や草むらを歩き続ける。たまに「危なくないですか」と聞かれるが、水牛の群れが人を襲うこともなく(我々は食す)、ラオスの山奥深くに一人きりでいる不安もあるが、周囲の山と谷の位置関係から帰り道を確かめキョロキョロしていて、生乾きの水牛の糞を踏んだら悲惨だという程度だ。

 とはいえ最低限の準備として手書きの地図、水、携帯食料、ナイフ、懐中電灯、ハンカチ(靴を脱いで川を渡った時に使用した)を持ち、またこの頃にはラオス語で「こんにちは。私はファイボー村に行きたいのですが…」「ありがとうございます」程度は言えるようになっていた。違う村落に迷い込み、真っ赤な口でビンロウを噛む老婆に声をかけナーン村だと判明、目指すは山の向こうだと聞く。辿り着いた未開のファイボー村には、赤土の上の30戸程の高床式住居が平安時代くらいの庶民の暮らしぶりを彷彿させ、何もないのだが軒先で機織る女性や駆け回る子供達と鶏がおり、懐かしさ、人間らしさを感じさせるから不思議であった。

 各所で参詣した寺院では庫裡に赴き僧侶に話しかけはしたが、英語を話せる僧侶が少なく、また数年の間出家するだけの子供の僧も多く、あまり深い仏教談義はできなかった。私は私で釈迦仏の前で偈文(短いお経)を勤め念仏し布施もさせていただいた。ルアンパバーンの托鉢が有名だが、どの村の僧も早朝に托鉢し、布施を与える信徒がいる。ある時彼らの隣に乞食の幼い子供がおり、その子は信徒にでなく僧に乞い、僧達が同じく乞い集めたその日の食を分け与えていたことが印象的であった。またある村で盲目の老婆が孫らしき男の子と来て私の脇の路上で合掌したのだが、目の前の商店の女主人が日本円で230円ほど恵んでいた。真宗にはない諸行や戒律であるが、ラオスでは大切にされ、、その国の人々の心には、遠くブッダ釈尊の願いが届いていたように感じられた。


[文章 若院]



≪本堂再建 着工前の準備≫ 

 頻繁に電車に乗ってJR大垣経由、樽見線の本巣駅(岐阜県)下車、施工会社の丸平建設(揖斐郡大野町)に出張。古橋さん(名古屋)、田中さん(岐阜)の両設計士も必ずお越しいただいています。工場では森さん(宮大工の棟梁)と辻さん(監督担当)が待っています、私とで5名が「準備されていた資材の検品」をしました。

 ケヤキ(国産材)、三明松(中国産)、チーク(ミャンマー産)、ブビンカ(アフリカ産)など準備した建築用材は、それぞれの特性を配慮して意見交換しながら、本堂の各部所にあてがう材木を一つ一つ選んでいきます。

 昨年12月より、虹梁(7本)はケヤキで、総数52本の中から最も質の良いものを選択し、割れが出たり、歪んだりした材も一部には見られたりもした。木を外から見ただけでは内部まで判断することができず、時に叩いたりして芯までの木質を予測します。木質を読むといったことの難しさがあった。

 材全体が目に見える箇所で使うならば、節・割れのない木目が求められるし、壁にあたる面では割れがあっても実際には覆われて見えません。貴重な用材ですから適材適所に慎重に時間を惜しまず使用する箇所の木を決めます。太く長く、重い用材ですから、1本を検査するにあたってリフト・ユニックなどの機器によってようやく入れ替えができます。冷え込む作業場の中で、日暮れまで続けられます。品定めを終えた資材は別の置場に運び、重ね積み上げられます。

 十二分に乾かせた材にもかかわらず、製材し始めた後に反り始め、歪みが生じたケヤキの柱材が2本ありました。(他ではこんな数字では収まらないと思う、もっと多い?)それに補充の乾燥ケヤキ材の入手には苦労しました。

 1月になってから外回りの構造柱(36本)は、水に強く腐りにくいチーク材を充てるとして、これも100本の原木のなかから順次選択し指定していきました。木喰い虫に食われ、腐りが見受けられるチークも少しあった。設計士は長さ、幅などを計測し、大工さんは木の資質を読み取って、適・不適の話が進められます。この問答から区分けされ、製材棟に移送され、大工職人が指定寸法に合わせていく工程に移ります。

 原木から調達された後には、多量の切れっ端しの材があって、それらの木片が山にも積まれておりました。この中から垂木や腰板などに使用できる、小さめの部材を数多く拾っていきました。ともかく全ての材をどこかしこに使うよう配慮をお願いしました。全ての材には番号が付けられます。どこの部材であるか仕分け表と照合するためです。番号もまず2種に分け、それぞれが1~600番台まで数えました。番号によってはそのサイズの部材が20点必要、また50点が予定されているなど、総ての部材数は想定していた以上のことでした。

 資材の検品、この立会は当初予定を超えた時間を要し、計画工程を繰り下げざるを得なくなりました。床は松で、破風はブビンカで…去年末には終了するとしていましたが、結局今年の2月下旬まで延びました。遅れること60日としてしまった。岐阜県北方の地方、冬の寒さは厳しいものでした。春の兆しを感じる2月末、使用罪の提供の量・質などの課題が遅れはしたものの解決でき安堵しました。

 寺側が本堂の使用材を提供するとした今回の施工方法は、純木造で「丈夫で長持ち」を設計理念としました。近年例にない、稀にみる珍しい事例であったことに加え、各種木材の使用箇所を設計士と寺側(住職)が細部にわたって指示するといった形態は、関わる棟梁筆頭他、大工諸氏の渾身の造作に託すことです。丸平さんの工場には称念寺コーナーの一角が設定されています。昨年の秋以降、主棟梁ほか配属の大工さん達は、連日部材加工の作業を順次進めていただいています。

 玄関の間などの造作を合わせると一部に不足材が生じる結果となりました。設計段階で不足材の想定はしていましたが、やや追加が多かったことを反省しています。これらについては緊急に丸平建設さんが補充するとしました。その購入分は当方がお支払いし、消費税5%である3月末までに決済するとし解決しました。昨年春に、基本の施工契約をして約1年が経過。本年の2月の時点で、本堂・玄関工事の総額がようやくにして決まりました。この初秋には、いよいよ木工事の作業を目にすることでしょう。

 2月25日、基礎のコンクリート強度試験に立ち会いました。通常RCは、寿命50年前後です。しかし新本堂には200~300年対応の超耐久のRCを採用します。セメント工場で特殊な薬品を混入します。後にRCの強度がどのようになるかを判定する、という試験に立ち会いました。境内に基礎としてのRC打設の時期は、いつがベストであるかを協議しました。ミキサー車で運ぶセメントの「流し込み」は、春の期間が最適であるとし工程を4、5月に設定いただくように決めました。

 2月28日、本堂内部の装飾飾り(既に取り壊した本堂についていた飾りと、一部は福建省泉州の職人が新たに彫刻した飾り)は、独自のデザインで寺側が手配済み。それらの数量、寸法などの採取を行い設計図面に基づいて確認し、内装を飾る鳥類、波の柄、魚類、雲の飾り物など、見事な彫刻の部材を、監督さんに見ていただき、それぞれを取り付ける場所を指定し、説明いたしました。

[住職 記]


≪寄付者・芳名高札≫ (建設委員会)

 境内の南駐車場の外枠に高札を掲げました。再建事業にご寄付いただいた方々を掲示します。個々の札には寄付をいただいた金額は書かれません。しかし本堂の木工事の部材名で懇志額を区分し、寄付者名の名札が順に並べられます。中央の大虹梁、外陣の虹梁、外陣中央の4本柱、ケヤキの柱、チークの柱などなどと順次表記され、芳名札が並んでいきます。現在名札の印刷を業者に発注しました。数か月後、尽尽なる謝意とともに掲示させていただきます。


 花咲くといふ 静かさの 弥生かな






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2014年3月号

ラオスの密林の奥
発行所
真宗大谷派 称念寺
発行人 住職 伊勢徳