寺報 清風











 かねてより念願であった仏教遺跡への旅をした。本来なら昨年のこの時期に行く予定であったのだが、新本堂工事のゴタゴタでキャンセルして延期した旅行であった。仏教は中国やタイ、日本を含む東アジア諸国だけでなく西方にも伝えられた。釈尊の教えはインドから隣国パキスタンに伝播し、その先のアフガニスタンにも仏跡がある。残念なことに、首都カブール北西のバーミアン遺跡では、2001年9月に起きたアメリカ同時多発テロ直前の3月、タリバンにより大仏像が爆破されている。その更に北西に位置するトルクメニスタン南東部のカラクム砂漠に、旅の目的地であるメルヴ遺跡がある。メルヴは紀元前6世紀頃からアケメネス朝ペルシアのオアシスの交易地として繁栄し、当時建てられた城壁跡が歴史遺産となっている。中国と欧州を結んだ古代シルクロード上のメルヴには、1世紀頃には仏教が伝えられたと考えられている。世界最西端の仏跡として寺院や仏塔の跡地があり、仏像や樹皮にサンスクリット語で書かれた経文の入った土器も発見されている。

 旧ソ連から独立を果たした、初代ニヤゾフ大統領の独裁国家であった「中央アジアの北朝鮮」とも揶揄されるトルクメニスタンへの入国は依然難しく、当然のことながら自由旅行は禁止、言論統制も厳しく宗教活動や街中での写真撮影すら厳重に規制されている。私は僧侶の身分を隠し、現地の旅行社に直接コンタクトし観光ビザを申請する必要があった。旅程の詳細、宿泊場所、職業、家族構成から出身校の履歴に至るまで個人情報をやり取りし、それをトルクメニスタン政府が精査し、移民局から私個人宛に招聘状が与えられなければ入国はできない。入国後も州の旅行課や警察に顔写真付き書類の提出義務もあり非常に煩雑だ。ギリギリ出発の3日前にビザを取得できたことから、旅の準備が整った。今回の旅券は主にエミレーツ航空であり、最初の経由地であるアラブ首長国連邦(UAE)のドバイへは関西空港からの出発となる。無料で名古屋駅からのエミレーツ航空専用シャトルバスがあったので、期待と不安を胸に乗り込んだ。ガラガラの車内では、乗客同士お互いの顔もよく見えて私はそのうち、名古屋在住の黒人のマダガスカル人と、民族衣装を着た敬虔なムスリムのパキスタン人とで打ち解け、傍から見ると非常に怪しい3人組が早速できあがった。

 空港へは出国便の数時間前に到着したので、旅行前の最後の晩餐に出かけた。それにしても私達3人は良く目立ち、通りすがりの人達が振り返るほど注目を浴びている。夜便の場合、通常私は先に腹一杯食べておき、不味いだけの機内の食事は断り、酒を飲んで寝に入ることが多い。しかし、このパキスタン人は酒を飲むと言うとあからさまに嫌な顔をしたので無理に誘わず、私は一人でお好み焼きを食べビールを飲み、読書をしたりして時間を潰した。出国カウンターの先でまた2人と合流したのだが、この厄介なパキスタンがイスラム教について話し続ける。マダガスカルは嫁と娘と共に暮らす日本で、年間10ヶ月は鉄板焼き職人として仕事をし残り2ヶ月を祖国で過ごすのだが、嫁さんが日本人であるから日本語も文化にも理解があるようであった。しかしパキスタンは一貫して神アッラーのこと、死後の世界のこと、関西空港にもモスクがあるのだとか話してばかり。そしてマダガスカルの祖父の祖父あたりが代々イスラム教徒であったが、鞍替えして自身はキリスト教徒となった彼に我慢ができず「悪いことだ」と繰り返す。私は僧侶であるとも言わず、マダガスカルと一緒に宗教の話は避けるようにしたが、彼の典型的な一神教的、排他的態度を目の当たりにし、これからイスラム教圏に赴くことにも辟易してしまった。

 エミレーツ航空は世界一だとの評判を聞いていた。実際、最新鋭のボーイング機777の乗り心地は最高で、離着陸をはじめ、各座席に備え付けの個人専用画面やその他サービスも申し分ない。10時間ほど経っただろうか、飛行機は早朝に無事ドバイへと降り立った。ドバイ国際空港は比較的新しいハブ空港であり、その中心の第3ターミナルはエミレーツ航空専用となる。つまり世界中から人々が一度ドバイに飛び、ドバイからまた世界中へと張り巡らされる飛行機に乗り換えるのだ。日本人のヨーロッパやアフリカ行きも近年はドバイ経由が多いようだ。ドバイのバブル景気は落ち着いたものの、各国の要人やセレブ達で賑わう観光エリアはやたらと「世界一」が多く、リゾートホテルも宿泊費が高いことが容易に想像できた。私はタクシーに乗り、出稼ぎの外国人労働者の居住エリアだと教えられた下町のデイラ地区の宿にチェックイン。早速、仕事前のフィリピン人やインド人で込み合う小汚い喫茶店に入り、彼らと同じものを注文する。チキンや芋を薄いナンで巻いたサンドイッチに、インド系が多いからか、香辛料の入った甘いチャイ(ミルクティー)がだされる。現地通貨ディルハムで150円相当だったが、手持ちがないので2ドルばかり置いてきた。町の両替屋が開いていなかったが、地下鉄の駅に降りてみると駅の両替屋がある。少しばかり両替し、電車で町へと出かけた。

     
 828メートルのブルジュ・ハリファ         ビーチ沿いの摩天楼

 私は旅行中、ほとんど観光というものをしたことがない。興味もないので名所が近くとも寄らないことが多いが、ドバイでは全くすることもなく観光だと割り切った。まずはテレビでお馴染みの世界一の高層ビル、ブルジュ・ハリファを見に行くことに。地下鉄の窓口で聞くと、1回乗り換えするだけだと言う。路線図は至って簡単だ。海沿いに主要路線であるレッドラインとグリーンラインがあるだけでわかりやすい。駅を降りて世界一大きいというドバイ・ショッピングモールを横切って、ブルジュ・ハリファの足元へ。天気も良く周囲のビルと見比べても圧巻の眺めだ。脇のコーヒーショップでゆっくりして、これも世界最大という噴水のショーは何時かと店員に聞くと、午後1時からだという。3時間後であった噴水は諦め人工島上のリゾートして有名なパーム・ジュメイラへ行くことにした。ビジネスや金融の要地らしい高層ビルの林立する摩天楼を抜け、電車を2回乗り換え見て回る。空港の男性職員の多くは白いワンピースを着て黒い輪っかを頭に乗せた民族衣装でアラブ人だとわかるし、町中で高級車を乗り回すのもやはり彼らであるが、電車のなかではまず見かけなかった。アラブ世界にはっきりとした階級社会とその役割分担があるのが面白いと感じた。ドバイではビルも電車もエレベーターも、優秀なビジネスマン諸氏のおかげで日本製が多く、不便や不安を感じるものがほとんどなかった。

 夕方からは予め申し込んでおいたツアーに参加した。7000円程するのだが、夕方から砂漠に出掛けドライブし、キャンプでBBQを楽しむという充実した内容であった。アラビア半島をドバイから南のオマーン方向へ約2時間走り、18年前からドバイに住んでいるというロシア人のドライバーは軽快に砂漠へと突入していく。彼の車は北米トヨタのセコイアでフルサイズSUV、他のドライバー達はやはりランクル200、ハマーあたりも多い。観光客とは違い、今どきは砂漠の民もラクダに乗るなんてことはしないのだ。砂上を走る準備としてタイヤの空気を半分抜いて、砂漠の奥へと丘をいくつも越えていく。斜めの斜面を走るときは、車も斜め方向(後部が下側)にしてフルスロットルでアクセルを踏む。ある程度把握したルートでないと、砂にはまったりバンパーが飛んだり、私がレンタカーを借りて自分で運転するには少し危なげだ。ルーマニア人の旅行者達に混ざってキャンプサイトで食事をし、ホテルに帰るとすでに9時となっていた。ダウンタウンの洒落たバーなどに出掛けたかったが面倒くさいので、サリーを着たインド人ママと30歳くらいの体格の良いインド人チーママのいる、デイラ地区の地元スナックでビールを数杯飲んで寝た。

 
 ランクルに乗るアラブ人ドライバー         アラブの砂漠地帯

 早朝、タクシーに乗り空港へ戻り、今度はイランまで3時間程度のフライトである。機内で忙しそうにパソコンを叩き仕事をしていた隣の美人が、黒い布で頭髪を覆って準備する。イランでは外国人も含め女性は全て、ヘジャブという頭髪を隠す布を着用する。私は「いよいよイランへ来たんや」と意気揚々と降り立ったが、到着ビザの発給を拒否され、旅の始まりに強制送還という最大の危機に直面した。急ぎ足で3番目に並んだまでは良かったが、受付窓口には「法制が変わり到着ビザの申請には旅行保険の証書が必要となりました」と書いてある。30人程の列に並ぶ外国人達は皆クリアファイルに挟んだ証書らしき書類を持っている。私と同様、ないものは近くの別の窓口で保険に入らなければならない。せっかく3番目に並んだのだしどうしようか迷っていると、最初の人は提出もせず確認すらされていない。私は「まあ、こんなもんや」と思い高くつくであろう保険を持たないまま申込書をもらい、隣の窓口に行き60米ドル(50ユーロ分)を支払った。その支払い証書と書き入れた申込書を元の窓口に提出するのだが、申込書面には「国内でのイラン人保証人」の欄があり、名前、住所、電話番号を記入しなければならない。

 私はイランへは初めての訪問で知人はいない。そう係官に伝えると、ホテルの名前を書けと言う。ガイドブックに載っていた宿の名前を適当に書き入れて提出した。しばらくして「Hey you, Japan(おい、日本)」と呼ばれる。実際、「そこの中国」とか「早く来い」と怒鳴ったり、非常に態度が横柄な係官なのであった。彼はホテルの予約書を出せと言う。イランでもいつものように、何件か宿を見て回り値段を聞いて決めようと思っていたので、その旨を伝えホテルの予約はないと答えるとビザの発給を拒否された。どうしたら良いか、助けてもらえないか、と聞いても「お前の入国はもうダメ。どうすることもできない」と言うばかり。携帯電話もなく、仮にあっても何か頼める人もない。ビザ待ちの他の外国人の携帯を借りて、今すぐホテル予約して書き込みたいと言っても、それは提出前にやってなければダメだと、取り合ってもらえない。イラン国内の空港では、到着ビザが支給されず復路の航空券でそのまま帰国というケースがままあるということも知っていたが、私の場合は保険証書だけでなくビザ申請にそもそも必要な、強制的な帰国に使用するその復路の航空券がないのであった。

 今回の旅では、選択肢の少ないなか安値の航空券を求め、UAEのドバイを経由してイランのテヘランに飛び、そこから陸路でイランの東側国境を目指しトルクメニスタンに入国、そしてメリーから首都アシュガバットへ車で移動して、その空港からトルコのイスタンブールへと抜ける旅程としていた。イランに入国しトルクメニスタンに行かないと帰れないのだ。新たに航空券を購入するにしても、チケットを販売する窓口は出国カウンターの外側だ。イラン旅行では、パスポートをなくしたりするとビザを携帯していないことで不法入国扱いとなり、こうした非常時の出国する手続きは最悪半年もかかるという。恋愛は禁止、日本と常識が違い、不倫など公になれば下半身を埋められた状態で周囲の人々が石を投げ殺す公開処刑が現存する国だ。私の場合も強引に入国して航空券を購入するのも危ない。日本大使に連絡するとは担当官に伝えたが、私のような一旅行者の個人トラブルは通常相手にもされない。疑心暗鬼に陥って、担当官に賄賂を求められており、握らせればスンナリ行くケースでないか、などと考えてもみた。賄賂を渡すなら人がいなくなった瞬間で、贈賄罪が上乗せになるかもしれないが200ドルでどうかと私は覚悟を決めた。そしてトルコかドバイへ行くしかない、とすると未使用のトルクメニスタンビザはどう扱われるのか。いずれにせよ「俺の旅は終わった」と絶望し、私はそこに立ち尽くすしかなく時間だけが過ぎていった。周りではビザ付きパスポートを返された人から、ホッとした表情やガッツポーズをして去って行く。出国も入国もできない私は、最悪の場合は空港の留置場に2週間ほど抑留され、人生初の強制送還かもしれない。最悪の危機に行く末を悩んでいると「おい、ジャパン」と呼ばれた。

 今度は何かと思って行くと、英語の話せない日本人がいるから通訳してくれと言う。何を間違えて来たのか、イランなのにスーツにネクタイを着用した(イランでのネクタイ着用は反イスラムの意味であり得ない)大人しそうな日本人が立っている。仕事のない若い検疫担当官が、英語もペルシア語もできないからお前が通訳しろという。私は自分が大問題を抱えており、正直それどころではなかった。が、「こんにちは。どうされました?」と声をかけ、話を聞いてみると私と同じ保証人欄で困っているという。同士を発見したことで少し嬉しくなり、「そうですか、実は私もなんです」などと話が弾む。彼を仮にS氏としよう。S氏の場合、預けている旅行鞄に保証人の連絡先が入っているが、手元にない状態らしい。今持っているのは、4人分の名前と電話番号が書かれたメモ用紙だけ。住所が書けないことから、彼もビザ発給を拒否されていた。しかし色々話を聞くと、なんとS氏はイランに過去13回も来ており、彼の妻はイラン人の女性で、彼の保証人は義理の息子のイラン人だと言う。それならと担当者に彼の奥さんはイラン人で云々と伝えると、急に表情が変わり笑って「早く言えよ」と。そしてお前は住所はいらないから早く名前と番号だけ書け、などと言っている。S氏がもたついていると、検疫担当官は身を乗り出し「俺が書いてやる」と言って、そのままお墨付きの申込書は住所が空欄のまま受領されてしまった。すでに2時間が経過し、その日入国した外人全30人のうち拒否された我々6人が残され憔悴していたが、彼一人が抜け出した。しかも私は60ドル支払い、他の人には65ドルであった元金50ユーロのビザ申込料金が、彼の場合は55ドルになっていた。

 私はこの人しかいないと思い、「すみません。御迷惑はおかけしませんので、あなたの奥さんを私の保証人にしてもらえないでしょうか」とS氏にお願いすると、少し間を置いて、私も助けてもらったからと、快く承諾していただいた。私は再度窓口に行き訴えたのだが、ガラス向こうのビザ担当官は書面変更もせず無視、全く対応してもらえない。やはりダメかと落ち込んでいると、若い女性の空港職員が来てペルシア語で何か話している。先ほどの暇な検疫担当官が来て英語に訳すと、S氏の奥さんがいつまで経っても主人が出国しないから下のロビーで心配している、という。今も申請中だと伝えてもらうと、20分程して彼女が戻ってきて、本当に大丈夫か、と。その証拠にサインが欲しい、と言うので、私はメモ用紙を取り出し、S氏がサインをして下に届けてもらう。しばらくすると再度彼女が戻ってきて、今度はビザ担当官に「奥さんが早くしろと言っている」などと伝えて周囲では笑いが起きている。私の問題は据え置きだが、しかし雰囲気が和みS氏には良かったと私は安心した。私とS氏はパートナーとなっていたので、ダメもとで再度丁寧に頼み込むと、成り行き上「今回は特別だぞ」などと睨まれ厳しく念を押されつつ、なんと私にも到着ビザが発給されることとなった。私とS氏は、共通の問題を乗り越え笑顔で入国カウンターを通過した。半ば強引に通過した私達は、その後も警察窓口で「お前たちは日本のヤクザか」などと尋問されビザ情報を記録される間待たされつつも、S氏の奥さんの待つ出国ゲートへ向かった。

 ゲートをくぐると、黒いヘジャブをした気の良いS氏の奥さんがいる。彼女は日本語を話し、到着ビザの問題を笑い話に変えてくれる明るい方であった。主人がお世話になったので街まで送っていきたい、と言われ有り難く便乗させてもらうことにした。空港の外では車が待機しており、義理の息子と抱き合って再会を喜ぶS氏。私も握手して挨拶し、全てうまく行き上機嫌で彼のベンツに乗り込んだ。空港を出ると砂漠地帯が続く。空港から街までは30キロ以上離れており、タクシーの値段交渉や遠回りされることも避けることができた。寒いと予想した2月中旬とはいえ日中の砂漠は暑い。砂埃が舞い上がる車道には他の多くのボロボロの古いフランス車が窓を開けながら走っているが、こちらはクーラーがしっかり効いている高級車、私は偶然の幸運を噛み締める。車内では私とS氏の失敗話を奥さんが息子に通訳し、皆で笑いが尽きない。実はS氏の奥さんも、空港の若い女性職員にしっかりと賄賂を渡し、便宜をはかってもらっていた。私の賄賂作戦もあながち間違いではなかったのだ。独身の息子は私と同じ年で、空港でもS氏から聞いていたとおり、彼が山でダイヤモンドの原石を採掘し、研磨作業から商品化、市場での販売まで手掛ける会社を家族親族で経営しているとのことであった。後でわかったことだが、彼らはテヘランでも有数の実業家一家なのであった。

 この奥さんが非常に親切な人で、かつてインドを放浪していた時に、西側から来た旅行者達の口々から「世界中で一番親切なのはイランとアフガニスタンの人々だ」と聞いていたことを思い出した。偶然出会っただけの見ず知らずの旅行者の私に「今日は家に泊まっていきなさい」という。丁重に断ると「自宅が嫌なら誰も使っていないマンションもある。そこに泊まってはどうか」という。お気持ちだけで十分です、と断ると「次は家族を連れてきてマンションに泊まるといいわ」、「クーラーは寒くないか」、「両替も手伝ってあげる」、「携帯も必要か」と話す言葉一つ一つが親切ばかりであった。郊外の町に差し掛かると、全てペルシア語表記の看板を訳してくれたり、屋台売りのあのジャガイモは1キロ100円で安いのよ、ガソリンはリッター20円だとか、国交断絶に至った大使館襲撃問題はサウジアラビアと外交上解決したとか丁寧に色々教えてくれ、彼女は「私が街も案内してあげる」と言い張っている。彼女の親切は、私の方で素直に受けるか断るかハッキリしないと、「それなら」と話が横道にそれてしまうほどだ。最後にはトルクメニスタン手前まで連れて行ってあげる、などとも言われ、私はこれほど人に親切にしてもらったのは何時ぶりだろうかと何度も胸が熱くなった。人に親切にするとは、ここまで相手のことを考えるものかと、イランの人に学ばせてもらった気がした。私はバスの切符を手配したり更なる移動の準備もあったが、これも旅のご縁だと食事だけは一緒させてもらうことにした。

 郊外はスラムや朽ちかけた建物も多いが、街の中心部へ入ると、日本の都市部と同じように小奇麗なマンションが建ち並ぶ。テヘランは約700万の人々が暮らすイランの首都で、4000メートル級の山々が連なるアルボルズ山脈の麓に位置する。背後にそびえる壮大な雪山の風景とマッチし、アジア的な混沌も残しつつ中東、ペルシア的な要素も見られ、雰囲気の良い街並みのテヘランに、車中の私は一発で魅了されていた。元来、私は窓から山の見える家に住むのが夢で、ロサンゼルスやハワイではしっかりと実現させており、このテヘランにも住んでみたいと感じた。出発前のニュースでは、テヘランは北京に次いで大気汚染が酷いとあり、地元の人々もそんな時はマスクをして生活するらしいが、私が着いた日はまあまあの晴天であった。都市高速を降りて坂道を上って行き、我々は市街最北端の非常に洒落たエリアに到着した。木立や雪解け水の小川、坂道や街の景観を最大限に活かした高級レストランへ、部屋は個室のコテージで中央の暖炉を囲み皆床に足を崩す。食事はイランの定番のチェロウ・キャバーブを中心に、ナン、トマトの丸焼き、香草、野菜、ヨーグルト、チーズ、オリーブの味噌漬けなど添え物と合わせ、イランの代表的な料理の数々がだされた。サフランが混ざった白飯チェロウは、たっぷりバターを乗せて食べるのがイラン式だ。イランのケバブはハンバーグのように、肉をミンチにして少し野菜と混ぜてあるので柔らかくて絶品だ。4人で1万5千円したと言うが、そういうこともサラッと教えてくれるのがこの奥さんの歯に衣着せぬ良いところだ。

 
  食事を共にしたコテージ式レストラン     暖炉を囲み食事を終え談笑する

 食事の後、息子の事務所に行き私は従業員らにも丁寧に紹介され、両替屋が閉まっているからと当座の小遣いまでいただいた。多忙の息子は遅れて会議に出席するのでここで別れたが、S氏と同じように、帰りには私も抱きしめられ両頬にキスされるイラン式で見送られた。すでに夕方6時半、夫婦にタクシーで安宿街まで送ってもらった。偶然出会ったその日は本当に楽しかったと、お互いに心から別れを惜しみ合った。近くには5件ほど安い宿があり、3件見比べ2500円程の宿に決定する。1泊1000円のドミー(6人の相部屋)も見たが、40代にもなると貧乏旅行だからといってわざわざ相部屋に泊まる気も失せている。トイレは清潔なイラン式(和式)、温水シャワーもあり十分だ。外に出て歩き回るが、旅行者自体が少ないことで、通常どこの国でも安宿街のそばにあるべき両替屋や旅行代理店が見当たらない。またいつもなら酒を飲みに出掛ける時間だが、イランは敬虔なイスラム教シーア派が多数を占めており、酒類の販売は一切禁止されているので居酒屋やバーもない。外国人のいない夜のテヘランを徘徊し、その日は身体を休めゆっくりすることにした。朝起きると、テヘランでは唯一行きたいと思っていた、「アメリカに死を」をスローガンとした反米国家イランの歴史を象徴する旧アメリカ大使館を見学しに行くことにした。初日はS氏夫婦に頼りきってしまったので、通りに出てタクシーの乗り方を学ぶことから始まった。

 イランのタクシーは交差点などで行き先を叫び客を集め、同じ方向へ向かう乗客が集まりチャーターする乗合タクシーが一般的だ。私も大通りにでて手を上げると、すでに乗客の乗ったタクシーが止まってくれる。が、もちろん英語も通じず行き先も値段交渉もまとまらず、3台続けて失敗する。仕方がないので、空車を探し「ダルバスト(貸切)、OK?」と確認し乗り込む。イランの通貨はイラン・リアルだが、日常使う金銭の単位はトマーンとなる。1トマーン=10リアルなので、表示(この場合は交渉)価格の10倍をリアルで支払うこととなる。タクシー運転手が両手を出せば、それは10×1000トマーンを意味し、1万トマーンは10万リアルの支払い(約400円)となる。私は1万トマーンで大使館に行き、30分程待ってもらい、そしてホステルまで帰ってきて再度1万トマーン支払うことで交渉した。もちろん一切英単語は通じない。運転手が俺に任せろと言うので、信用することにした。車中では「バングラデシュ人?」と聞かれ「ジャーポン」だと答えると笑いが起きた。「フープ・イラン?」身振り手振りからイランは好きかと聞かれ、すぐに頷いた自分にも驚いた。こうして「サラーム(こんにちは)」、「フープ(良い)」、「バレ(はい)」など少しずつペルシア語を覚えていくのだった。結局30分待つことが通じなかったようで、1万トマーンを支払いタクシーを降りた。通常旅行中には、大使館など決して関わりたくないが、この旧アメリカ大使館は特別であった。私も最初は映画『アルゴ』(2012年)で知ったのだが、天下のアメリカ大使館が占拠され人質事件が発生した場所であった。

 
   自由の女神のドクロ版       「Down with USA」アメリカと共には下策

 親米路線に伴って経済改革し、女性のヘジャブ着用をやめたりと、中東イランの西洋化・自由化を進めたパーレビ国王は、結局イスラム系法学者や国民らの猛反発を買い、シーア派の人々が中心となった王政打倒が成立しイラン革命となったのが1979年。元国王がアメリカに亡命したことで、人々が米大使館に抗議デモを行い、そのまま占拠し外交官やその家族を人質とし、アメリカに元国王の身柄引き渡しを要求した。この事件の際に、テヘラン市街に脱出した米外交官6名をカナダ大使が保護し、CIAの謀略で架空の映画「アルゴ」の撮影スタッフに扮して脱出させた物語が映画となっていた。他の人質らは結局1年以上も監禁された後に開放されたが、現在もこの大使館の壁の外側には、アメリカを批判する多くの絵が描かれたままだ。私はアメリカに5年住み、アメリカという国を愛し、アメリカ人気質の良し悪しも理解しているつもりだが、同時に海外でのその批判も多く聞いてきた。白人旅行者の間では、多くの国々でアメリカの人達はカナダ人だと名乗り、自分がアメリカ出身であることを明かさない人が多い。現在でもドナルド・トランプ氏に代表される愚かさもあからさまだが、ここに描かれた批判は強烈であった。掲げられた幕にも「Any nations such as our nation, has never belittled the tyrannical regine of U.S.」(私達のイランという国は、アメリカの暴君的な体制を決して見下したことはない)とある。「悪の枢軸」と一方的に位置づけたブッシュ元大統領をはじめ、アメリカの側がイランを見下し批判してきたというのだ。

 出発前にイランに行くと言うと、周りの人は決まって「危ない国」に行って大丈夫か、などと心配してくれた。実際、イランの治安は隣国のイラクやアフガニスタン、パキスタンとは事情が全く違う。そして「危ない」というのは治安だけでなく、イランの人々の印象にも及んでいた。特にイスラム国のテロリストと同調させ「イスラム原理主義の危ない人々」と決めつけている。イランに行けばすぐにわかるが、これは本当に恥ずかしい無知である。テヘランの街中では大通りに必ず警察が常駐しており、非常に治安は良く保たれている。喧嘩もなければ騒ぎもなく、銃犯罪の危険性はまずないだろう。女性や子供も楽しそうに買い物や散歩をしている。外国人、特に日本人は非常に珍しく、気軽に話しかけてくる沢山のイラン人達は、非常に紳士的で旅行者を困らすようなことは一切ない。「どこから来たのか」「日本です」「ようこそ、ようこそ」と笑顔で何度言われたことか。少し話をすれば皆必ず「チャイ(紅茶)を飲んでいかないか」と誘われるし、男性諸氏は最後に右手を左胸に当てて「メルスィー(ありがとう)」と頭を下げて礼をする。彼らペルシア的紳士の立ち振る舞いと丁寧さには、大変頭が下がるものがあった。タクシーの交渉にしたって必要ないのだった。そもそも料金をボッタくる運転手は皆無で、距離に応じた適正料金があるだけで、チップを渡そうにも決して受け取らない。これは驚きであった。多くの人々は、イスラム国のテロリズムを批判していたし、トランプ氏の躍進を憂慮する視点も持っていた。空港では一悶着あったが一度も嫌な思いをせず旅行できた国は、私の知る限りはイランが初めてであった。困ったことがあればすぐに助けようとし、自分でわからなければ周囲の人々に聞いて、必ず誰かが助けてくれる。英語は必要ない。当たり前の人間の在り方だが、金換算ばかりして「自己責任」などと叫ぶ現代の日本人も、ペルシア人として誇り高き彼らから学ぶべきことは多いだろう。

 大使館を見学した後は安宿街へは戻らずに、両替屋があるFerdawsisに向かった。テヘランの街中では場所を示すのに交差点名で表すことが多いが、ここもその一つだ。イラン・レアルなど旅行後には両替すらできないので、1万5千円分だけにした。近くで旅行会社も探し当て、東部のマッシャードまでは14時間だというので、その日の夜に出発するバスの切符を購入した。バックパックを担いでいるわけではないので、ホステルへは安いバイク・タクシーで帰り節約した。昼から出発の午後8時まで時間があるので、S氏の奥さんに電話すると、二人で宿まで迎えに来てくれるという。チェックアウトを済ませ、3人で中東最大の市場バーザールへ向かった。バックパックを担いだ旅行者の私、スーツにネクタイ着用のS氏、日本語を話す奥さんの3人は、お茶を飲んでもご飯を食べても、歩いているだけでも人々の注目を集めまくった。バーザールの中に家族の経営するダイヤモンドの販売店があり、そこにリュックを置かせてもらい、貴金属、シャンデリア、食料品、日用品、香料など歩いて色々な店を見て回った。圧巻はやはりペルシア絨毯で、最高級の本物を見て目の保養をさせてもらった。バザールでは同種の品を扱う店が軒を並べて営業するのだが、ペルシア絨毯のエリアでは最も老舗の大きな店に入った。1階の店舗には所狭しと絨毯が展示されている。ここは地元の奥さんの通訳で説明してもらう。イラン国内の羊毛を使用し、草木染めが主流だ。基本の赤系統の色はザクロや茜、青系統は藍やトルコ石が原料として使用される。途中から地下の部屋に移り更に物色、その更に奥にあるビップルームへと導かれチャイを飲みながら次々に鑑賞する。50枚以上見たが、値段も5~10万円から次第に20万、40万、100万超と上がっていく。遊牧民の編む情緒的な絨毯も悪くないが、やはり本物のペルシア絨毯は見る角度によっても輝きが違い、その繊細な文様は目の錯覚を起こすほどに美しい。近年では青系統の細かい文様のものが人気だそうだが、今では投資的な役割も果たす100年以上前の伝統的な物が最高級として質は高い。日本に輸入すれば倍以上の値段で出回るはずだ。

 牛タン・サンドイッチ(かなり美味い)やドライ・フルーツを食べたり、ザクロの100%ジュースを飲んだり、私達3人は腹を空かす暇がなかったが、最後にイラン料理の代表格ジェギャル(レバー串)を食べに行った。込み合う店内で食べたレバーや鳥の首部分の串焼きは、ビールがなくとも最高に美味しかった。イランは世俗国家でなく、イスラム法で国家が統治される。よって若い男女の恋愛は禁止だと聞いていたが自由も浸透してきているのだろう、市場では腕を組んでデートをするカップルも数組だが見かけた。皆笑いながらよく食べ、楽しそうに買い物し、活気に満ちたバーザールであった。見学も堪能し、市街地の案内ついでに奥さんが投資したマンション数棟を見せてもらった。アメリカとの核開発疑惑も解消され、これからイランが中東の大国として経済発展するとき必ず不動産が上昇することも知っている賢い奥さんであった。銀行の利子は22%あるそうで、複利では4年未満で2倍となり、S氏も日本で預金せずこちらの口座に金を入れているそうだ。地下鉄の改札で夫婦と別れた。別れ際にも、電車の切符やバスの中で食べる軽食とナッツ類をくれるだけでなく、通りがかりのおっさんに「彼をバス停のあるジュヌーブ駅で降ろしてやってくれ」と言伝まで頼んでくれている。初めてのイラン旅行で本当にお世話になってしまった。感謝、感謝。テヘランでは数万のイラン人とすれ違っているが、首都ですら外国人はほとんど出会わなかった。バックパッカー姿の私は、黒いヘジャブを被った若いイラン人女性達にも声をかけられ、電話番号を聞かれたりサインを求められたり、興味津々の人々の姿も面白かった。

 さて、ここからはまた一人旅となった。駅を降りてバス停に着くと、バス50台程がターミナルに入っては出発している。当日券を買う人も多いので、出発前には行き先を叫ぶ切符売りが行き交う。今回時間がなく行けなかった観光地エスファハーン、ヤズド、シーラーズ行きのバスもある。しかし私は、またイランに行く機会があれば地元の若者に聞いた、北部のカスピ海沿いの田舎町ラームサルやサーリーの方を優先させるつもりだ。通常、バス停には時刻表があったり車の番号表示があったりするのだが、ペルシア語表記の数字が読めないのにはホトホト困った。今回はドバイではアラビア語、イランではペルシア語、トルクメニスタンではトルクメン語、イスタンブールはトルコ語であり、ほとんど言葉を覚えることができなかった。イラン滞在4日間で覚えた数字も、1、7、8、10、11くらいで、全く使い物にならなかった。頼るべきはイラン人、他の国では聞いても「アッチやコッチや」と指してくれる程度だが、彼らは便所やバスの場所まで連れて行ってくれるのだ。観光大国で外国人を優遇するのでもなし、彼らの性分ということであろう。イランの幹線道路は整っており、夜行バスは100kmオーバーで飛ばすが反対車線は50メートルほど離れており比較的安心して乗車できる。果てしなく続く荒涼地を抜けること14時間、バスは東部の街マッシャード(マシュハド)へ到着した。バス停からタクシーで市街中心部へ移動する。マッシャードはイラン最大の巡礼地でもあるので、中級ホテルが5000円オーバーで高め設定だ。4件目に見た2000円の宿で手を打ちチェックイン。荷物を置いて、早速この聖地の中心である8代目エマーム・レザーの聖墓であるハラムへと歩いて出掛けた。

   
  聖墓ハラムに集うムスリムの人々      出入り口にも見事なペルシア絨毯が

 通常イスラム教徒でない異教徒は、例えばサウジアラビアの聖地メッカには近づくことすらできないし、入場できないモスクも数多い。しかしこのマッシャードのハラムは仏教徒の私でも問題なく参拝することができた。818年にエマーム・レザーが殉教した地として、マッシャードはシーア派の聖地でその中心にハラメ・モタッハル広場とそのモスク群がある。老若男女、数多くのムスリム達が巡礼に来ており、女性達は単なるヘジャブでなく、皆一様にチャドルという黒い布にすっぽり身を覆っている。時折アラブ人ムスリムの姿も見かける。経典コーランの朗唱が響くなか、見惚れるほど美しい天井の鍾乳石飾りエイヴァーン(水色の門)をくぐり足を踏み入れる。建物の中では多くの人々が膝をつき祈りを捧げており、この宇宙的な広い空間のなか何万ものイスラム教徒に囲まれる異教徒は私一人だ。緊張しながらも、靴を脱いで手前の緑のドームの建物内から見て回る。天井や壁には鏡片が張り巡らされ、眩しげなキラキラとした光が神々しく交差する。警備もしっかりしており、異教徒は入れないエリアも怒られたら戻ろうと、ドンドン奥へと入り込む。圧巻はこの霊廟の最も中心である黄金のドームの下にある、エマーム・レザーその人の聖墓であった。もちろん異教徒は立入禁止エリアだ。ドーム入り口のドアや柱にも、「嘆きの宗教」シーア派の巡礼者たちが感極まっておでこや唇をつけ入っていく。聖墓は将棋倒しの事故がいつ何時起こってもおかしくないほど常に混雑しており、男性と女性のエリアに分けられている。信仰心の篤い老人が掛け声を叫ぶと皆が呼応してアッラーの神の名を讃えている。皆が聖墓を一目見て触れようと熱狂的にその周囲をひしめき合い回っていくのだ。立ち止まった人々がコーランを読誦している一角があり、私は深く感銘を受けそこで只々立ち尽くすのであった。

 圧倒的な場の力に感動した私は、夜にも再度でかけ、ライトアップされた霊廟と聖墓に参拝した。人は自分に被害がないと無関心になる。だが私は今回の旅の出発前、隣国イラクやアフガニスタン、シリアでは爆撃が絶えず、フランスやトルコなど各地でイスラム国による自爆テロが多発し、中東イスラム社会へと赴く身となったことから、無関心ではいられなくなり心を痛めていた。前年に欧州に行き目の当たりにしたシリア難民、クルド人難民の問題も解決策が見当たらない。経済力や軍事面で圧倒する欧米諸国が、イスラム原理主義の人々の在り方を認めなければ、世界的なイスラム教徒とキリスト教徒を巡る紛争は終わらない。いずれにせよ双方の一神教の原理として、自分たちの信じる神を信じない異教徒は悪だとするその根本を、命の尊さから改めるか解釈しなおさなければならない、などと勝手に考えていた。本当に独りよがりとは怖いもので、一神教を勝手に誤解していた。人種の違う異教徒として私を排除しようとする人は、イランには一人もいなかった。逆に各地でイランの人々の親切心に触れ、その彼らが本当に大切にしている信仰に触れさせてもらっていた。キリスト教とイスラム教の対立では、勝手にイスラム側が悪だと決めつけ、イスラムの人々のことを学ぼうという気すらなかった自分に気が付いた。知るほどに魅了されたこの素晴らしいイランの国と人々の心に、外部の者が勝手な都合で変化を強制することは理不尽な暴力に他ならない。無知のまま悪だ危険だと言われている、悪い人には一人も出会わなかった(もちろん政治や宗教の裏側まではわからないが)。マッシャードの町は各地から訪れた巡礼者達で賑わっており、繁盛していた鶏の丸焼き店に入り、半身とナンとヨーグルト、香草を食べながら、色々と考えさせられたことだ。

 
 見事な文様の門              水色のドームの奥に黄金ドームがある

 次の日、早朝に起きてチェックアウトし、マッシャードから更に東の国境地サラフスへ向かう。この道中が、今回の旅での唯一の懸念材料であった。本来、マッシャードまで行かなくとも、より西側にバーギランという地名の国境地点があり、そこからトルクメニスタンのアシュガバットへ抜ける道があった。しかし、イラン北側の山岳地帯にある国境で、冬の寒い時期に雪が多い時は閉鎖されているとの情報もあった。普段の放浪では、無計画に僻地へ行き散策し、地元の人達との交流ができれば良い私の旅だが、今回は出発前に旅程について熟慮し、国境越えを確実にする必要があった。というわけで山岳地帯を避け、マッシャードの北東に位置するサラフスでの越境を予定したが、未だタリバンの支配するアフガニスタンの北部国境にほど近いエリアだ。日本人旅行者など、拉致すれば数千万円になる宝物が落ちている様なものだ。ここから先は誰にも行き先を話さず、移動し続け目立たないようにしなければならない。他の国の旅行者にもサラフスへ行く者は皆無で、どの地図を見てもバス停の場所がわからない。大通りのベテランらしきタクシー運転手を捕まえて、徐々に覚えてきたペルシア語で「サラーム。テルミナーレ・オートブス・べ・サラフス・コジャース(どうも、サラフス行きのバス停はどこか)」と聞くと、気の良い彼は周囲の人々に尋ね、それでもわからなく近くの商店主達にも聞き回ってくれている。1万トマーンで良いかと言うので、それほど遠くないことがわかった。市街東のはずれにある地方行きのバス停で、この運ちゃんは私の為にタクシーを降り切符を買い、身振り手振りで場所と時間まで教えてくれた。2時間待ちバスに乗るが、道中はやはり現状で一般の旅行者が行くことのできる最果ての地で、テレビで見たアフガンらしい景色が広がっている。半日かけて荒れ果てた土と岩だけの不毛の山々を抜けていく。事前情報が全くないので心配していたがサラフスはちゃんとした町で、途中のレンガを積んでトタンを乗せただけの家々ばかりでなく安心した。郊外で降ろされたので、他の乗客3人の向かう後についていくと町に着いた。さて歩き回るが一向に宿が見つからない。人も少なかったが道端で聞くと「ホテルはサラフスにはない。街の外にあるんだ」と言う。仕方がないので言われた方向に行くと、唯一軒の宿へと辿り着くことができた。

 
 サラフスへの道中、土レンガの家々       アフガンへと続く不毛の山々

 フロントで日本人だと言うと「4年前に日本人が来たぞ。カンペー知っているか」と宿主がいう。ああ、マラソンで世界一周していた間寛平ちゃんだ。こんなところまで来てたんやな、と笑えてきた。街に戻りウロウロしていると、5人で談笑していた若者達と知り合い、政治やテロ、色々な話を笑いながら語り合い、旅行中何度もいただいたチャイだが、そこで振る舞われたチャイがとても美味しく感じた。翌日も早起きしリュックを担いで国境地点まで歩いていく。イラン側の出国は、荷物検査、何を撮影したかのカメラの写真ファイルの検査があり、旅程の詳細についての質疑もあり、それぞれの担当者が常に席をはずしており段取りが悪い。珍しく英語を話すマシンガンを抱えたイラン側国境警備隊の兵士と色々話し、そこでもチャイを飲んでいかないかと誘われるが断って、鉄条網と塹壕をめぐらした国境を2キロほど横切り、いよいよトルクメニスタン側の国境へ到着。独裁国家らしく、早速制服を着た兵士に囲まれ待たされる。私は予め観光ビザを取得していたので全く問題はなかったのだが、書類審査、支払い、入国届、荷物検査、身体検査、こちらもミスが多く段取りも悪い。この日の午前は、サラフスから入国した旅行者は私一人だけで、出国に2時間、入国に2時間かかってしまった。ここで予め依頼していたドライバーと合流し、車で旅の目的地であるメルヴに向かった。朝から何も食べておらず、途中の道端の砂漠にあるラクダ飼い(トルクメン人は馬は食べないがラクダは乳だけでなく食用肉となるが今回は食べれなかった)や羊飼いの集落に寄りたいと思ったが、日が暮れる前にメルヴに行くことにした。

 約5時間かけメルヴまで行くのだが、独裁国家であるため監視の目が大変厳しい。首都も交差点ごとに警官の監視が付いていたが、砂漠の幹線道路も2~3キロごとに検問がある。何度も止められ尋問されるので煩わしいが、毎度ドライバーも身分証を見せ説明をしている。砂漠の中のオアシス都市ながら最盛期には人口が100万人いたとされるメルヴは、13世紀にチンギス・ハーンの軍隊に滅ぼされ廃墟と化した街だが、その城壁跡はかなり広範囲にわたっている。11世紀のセルジューク朝の王スルタン・サンジャルの霊廟を始め、地下水道など歴史遺産が散在するが、その価値が見出されたのが最近のことで、辺りは畑や墓地、羊の散歩道となっている。城壁内の道の整備も中途半端で、坂と砂で車が立ち往生してしまう。しかし仏跡はどうしても外せない。嫌がるドライバーを説得し一緒に歩いて仏像が発見されたという、寺院跡まで連れて行ってもらう。約20世紀の時を経てその仏跡はただの丘となっていた。発見された仏像の頭部分が一般公開されるのは2017年以降なので、今回は見ることができなかった。丘に登り、バックパッカーの旅の途中のため衣も数珠もなかったが、私は一人静かに合掌し、南無阿弥陀仏と念仏を称え、短い経文を唱え参拝した。これまでもインドやネパールなどアジア諸国の仏跡にも行ってきたが、念願であった世界最西端のこの仏跡へも参ることができた。

 
 メルヴに向かう途中の道路          仏教寺院跡の丘の前にて

 かつて命懸けで真実の教を求め仏跡巡礼の3万キロを旅し、小説『西遊記』の主人公となった三蔵法師・玄奘について、この旅中にその旅行記『大慈恩寺三蔵法師伝』を読んでいた(有名な著書『大唐西域記』は、その内容は地理書となっている)。遥か昔7世紀に、法師もタクラマカン砂漠やパミール高原、カラコルム山脈を一人陸路で越えて、このメルヴ北側の捕喝国、現ブハラ(ウズベキスタン)までも来ていたことを想うと、悠久の時を経て同じ仏道を歩ませてもらっていることが有り難かった。彼の場合は、先々で教えを学びつつ説法や講義をし、更に仏教を広めながら多くの協力者を得て壮大な旅を実現させた。私にしても飛行機や車で遥々来た感もあったが、当時よくこの砂漠を一人越えて来たのだと、大冒険家としての玄奘法師の側面を垣間見た。仏教の教えは、自分とは何かという根源的な問いに向き合った人々の歴史である。様々な苦悩が尽きず、前向きに楽しみながらも不安や諦めに満ちたこの人生に、私自身も道を見出すことができたのは、多くの先達の歩みがあってこそであった。すでにカラクム砂漠の彼方へと真っ赤な夕日が沈みかけており、ぼーっと眺めていると不思議と目頭が熱くなった。

 トルクメニスタンは近年には日本のテレビ番組でも何度か扱われ注目を浴びてきた国だが、もちろんテレビで放映できる範囲は限定されたものだ。その実態は非常に興味深く、まず国民の幸福に満ちた笑顔に驚いた。私達は基本的に、現代の社会というものは独裁でなく民主主義に依らなければならないのだと考える。しかしトルクメニスタンの人々は幸せそうであった。経済状況は車種で判断できるが、基本的に資源マネーを背景に人々の暮らしはかなり豊かで、平均がトヨタのカムリあたり。ドバイ経由で輸入されるランドクルーザーやレクサス、BMWも数多く走っている。街には商店はほとんどなく、郊外に超大型ショッピングモールがある形態の現代的車社会である。月給の最低賃金は150ドル(1万8千円)と低いが、平均は500~800ドルという。しかしながら住居と土地は無料で提供され、これも無料の医療や教育も充実しており、結婚後は電気やガス・水道代も無料となる。広大な土地で栽培される大麦と綿花は、市場経済でないので常に政府が保証して買い取っている。初代ニヤゾフに続く2代目大統領が医学部出身で、以前は首都圏にしかなかった病院も各州に建てられたらしい。若者達は海外留学する者も多いが、驚くべきことに西欧社会を見聞しても帰国して暮らす人が大半だという。逆にトルクメン人しか享受できない安定した福祉を誇りに思っているふしがある。ガソリンはリッター25円程度、地元のスーパーも日本の3分の2ほどの日用品の物価にも関わらず、女性や家族連れの山積みのカートに高い購買意欲が見て取れる。ともあれ、基本的に公の場での飲酒は禁止されているが、私はドライバーと共に地元のレストランで旅の目的を達成した祝杯を冷えた生ビールであげた。

    
 派手なLEDの建物           官人専用のマンション

 次の日、5時間ほどかけて首都アシュガバットへ車で移動した。そこは奇天烈な宇宙的近代国家とでも表現したらよいのか、摩訶不思議な都市であった。街中には高層マンション、大学、政府機関などが建ち並ぶのだが、その構造が不思議なものばかりだ。大統領の肖像や写真も至る所に掲げられている。泊まったホテルが街の中心であったので、一人近くの公園へと散歩に出かけた。そこには我々の社会と変わらない、子供たちの笑顔あふれる家族連れが多く、ホームレスの姿も一切見かけない。腹が減りレストランや屋台を探すが前述のとおり車社会であり一軒も見当たらない。仕方なく歩き回り中央駅を探し出す。駅前の屋台でケバブサンドイッチを購入、怪しげなカフェを発見し中に入ると予想通り隅にビールが置いてある。なかの客は誰一人飲んでいなかったが、6マナト(約200円)支払い瓶ビールを頼む。トルクメニスタン広しといえども、今日この時間に酔っぱらっている日本人は俺一人だと思うと、自然と飲むペースが上がっていくのであった。帰りに高級ホテルに寄りカフェで食後のコーヒーを一服、15マナトも支払った(ドライバー氏の家賃が年間24マナトだというのに)。首都にある巨大なショッピングモールは日本のイオンなどより遥かに格上で、子供達は300ドルもする電動スケートボードに乗り移動し、ゲームセンターにすし屋にハンバーガー、屋内スケートリンクまであり規模も大きい。街中の城のような究極のセレブマンションは、政府機関で15年勤めれば住めるという。5ツ星ホテルも見学し、2000人収容できるという無料の結婚式場も夜には派手な電飾で飾られ奇天烈極まりない。トルクメニスタンは本当に不思議な国であった。

 
 商店街のない無機質な首都    帰国直後テロのあったイスティクラル通り(トルコ)

 交差点では警官に止められ、建物の至る所に監視カメラがあり、最終日にも監視役の担当者に空港ゲートまで付き添われて出国し、やっとのことでトルコのイスタンブールへと抜けていった。トルコでは観光客を狙ったテロ事件が多発していたが、地元民の集まるダウンタウン地区のベイヨールに宿をとり、アジアとヨーロッパの中間地点として魅力や文化が融合したイスタンブールを歩き回った。帰国後には毎日徘徊したイスティクラル通りでも自爆テロが起きていてまた胸を痛めた。後日談となるが、今年の11月には私の古巣である東本願寺ハワイ別院の100周年記念法要があるため、アメリカのESTA入国申し込みをネットですると早速入国拒否となった。テロを警戒したアメリカは入国を規制し始め、2011年以降にイラン、イラク、スーダン、シリアに渡航したことがある者はビザなしで入国できなくなっており「俺もいよいよテロリスト扱いか」としみじみと思わされた。イラクやシリアはわかるのだが、単なる反米国家のイランを勝手にテロ国家とするのも疑問が残るが仕方がない。後日、大阪のアメリカ領事館に行き、トルクメニスタン旅行のためにイランを経由しただけで、私はテロリストではないと証明させられる羽目になった。中国にネパールやラオス、カンボジアやフィリピン、そしてイランにトルクメニスタン、様々なスタンプで汚れてきた私の現パスポートも満期まであと1年。通い続けた東南アジアを越えて、新たにより広い世界観に触れ、私の旅も一体どこへ向かって歩んでいるのか、自分でもよく分からなくなってきた今日この頃だ。





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2016年3月号

夕暮れの西方仏土 (書き下ろし版)

発行所
真宗大谷派 称念寺
発行人 住職 伊勢徳