寺報 清風








          称念寺の稚児行列


 3月下旬に新本堂の落慶法要を迎え、翌日には親鸞聖人の750回御遠忌法要に先立ち、稚児行列が行われる。法要の一部であるから、稚児行列はお祭りではなくお仏事となる。年末からの公募に500名弱の稚児申し込みがあり、保護者も入れると1000人以上の参列が予想され、その安全の確保や進行の準備に追われている。称念寺の本堂落成に際し、幼い子供達や若い保護者らも参列し、共にお祝いしていただけることは本当に有り難い。

 この地域では、子供を稚児に3回出すと幸せになれる、という言い伝えが残っている。昔から願われてきた子や孫の幸せだが、現代の大人自身、何が本当の幸せなのか、子供本人にとって幸せとは何か、誰しも迷いがある。家で「宿題をやりなさい」とさせたところで、子供自身がその気にならないと意味がないし、学業が人生に豊かさに直結するかといえば、それも疑問が残る。それよりも、たとえ褒められたものでなくとも、自分に正直に生きていって欲しいとも思う。もっと言えば、子供が頑張った時だけ「さすが我が子」と得意になる親のエゴがある。未来ばかり求め、大人が期待する成績や結果、豊かな将来や老後という幸せの条件がある限り、どんな歩みでも認められ「私が私に生まれて良かった」と子供自身が喜べないのではないだろうか。

 存在自体を喜ぶことができないことを「無所帰」という。 佐野明弘

※ 平安中期の源信僧都が『往生要集』に描いた八大地獄の物語の中で、阿鼻(無間)地獄に落ちた罪人が、「我今無所帰 孤独無同伴(我、今帰する所なく孤独にして同伴なし)」と嘆いた言葉より。

 日頃私達は、自力で思い通りの人生を送ることが幸せだと思っている。腹が減れば美味いものを食べたいし、便利で快適なものは大歓迎だ。それぞれの物差しがあるが、与党の「経済第一」と同じく金さえあればと考えるし、やっぱり健康で長生きが大事だとも思う。仏教で「罪福心」と呼ばれる、家内安全、商売繁盛、無病息災、交通安全、受験合格に子宝まで、あらゆる自分だけの都合を善として願い生きている。その居場所が脅かされれば、それこそ必死に守るばかりだ。伝統行事・節分の「鬼は外、福は内」も、損することは排除し、自分が得することを願う言葉で、日本人もトランプ大統領も身勝手は同じだ。テレビでニュースを観る態度で、他人の痛み、悲しみに同情はするが、所詮は他人事。時が過ぎ、歳を取り病気になれば愚痴をこぼし、人生を楽しめなければそれ以外にない自分の価値すら見失う。生涯を通し、良かった悪かった、儲けた損した、死ぬまでにあれもしたい、これもしたい。子に幸せを願う私自身は、本当に今在るいのちを尊く引き受け、満足して生きているだろうか。

 仏教では、人との関係性からも自分を見つめることが大切だと教えられる。子供は私の所有物でない、思い通りにならない、当たり前のことだが実はこのこと一つが難しい。特に子供に対しては、親は自分を絶対化して接する。夫婦関係でも同じだが、自らの体験、学び、生き方、知識、全てが我が身を立て、相手にその正しさを押し付けていることに気が付けない。皆苦労しているのに、自分だけが苦労していると妄想する。子供には子供の想いがあり、子の人生がある。親の都合に合えば「良い子」、思いに添わなければ「悪い子」、家事の手伝いも躾というより親が楽をする役に立つか立たないか。本当の自分を生きるのか、自己の評価の為に生きるのか、悩む子の原因は親にある。どの人も、どこまでも自分中心に物事を考え願い、善悪を決めつけ傲慢に人と接している事実が、『正信偈』では「一切善悪凡夫人」、「邪見驕慢悪衆生」と言い当てられている。子供も親も、兄弟も祖父母も、老い、病気にもなり、それぞれの人生を生きて、必ず互いに死別していかなければならない無常なる命の足元、つまり二度と戻らない今の尊さが見えないのだ。

 京都の本山・東本願寺は、親鸞聖人が亡くなった後、人々が墓所に集まって教えと生き方を確かめ合ったことがその起源である。だから称念寺の新本堂も教えを聞く私達が座る参詣席のエリア(外陣)が最も広い。仏教は、頑張ればなんとかなると考える私達に、思い通りにならない人生や人間関係の苦悩に向き合うことを通して、自分のあり方を学び知ることが大切だと説いている。大切な人の死やどうにもならない苦悩があって、人は初めて立ち止まり、自らの人生を振り返る。子供に「お寺って何をする所なの」と聞かれたら、「寺に行くと気が付かなかった自分の間違いを教えられる」、また「目先のことだけに一生懸命に生き、たまたま人間に生まれたことの深さを見失っていた」、そう答えられるような人を生み出すはたらきが本尊・阿弥陀如来として表現されている。改めて、人間の価値や幸せの条件を超えて、老人も大人も、個性豊かな子供達と共に、皆で歩んで行けるような稚児行列として、新しい本堂に入堂して行きたい。

[文章 若院]

みんなご縁のままに、今生きている。これを他力という。 小川一乗

人生で大きな失敗もしなかった。ただ「それで一体どうしたか」という問いに答えられるか。 平野修




≪法要次第≫

3月25日(土) 本堂・落慶法要

 午後1時~
  集会 舞楽「迦陵頻 蘭陵王」
  ステージにて蓮ちゃん、鸞恩くん登場

 午後1時半~
  落慶法要(新本堂にて)
  出仕 総礼 登高座(稽首天人)
  三帰依文 表白
  読経 仏説阿弥陀経 散華
          下高座(直入弥陀)
  正信偈 真四句目下
  念仏讃 五淘
  和讃 弥陀成仏ノコノカタハ 三首
  回向 我説彼尊

 午後2時半~
  法話 荒山淳氏 (名古屋教区教化センター長)

 午後3時45分~
  恩徳讃唱和
  舞楽「迦陵頻 蘭陵王」

 午後4時 終了予定

3月26日(日) 親鸞聖人750回御遠忌法要

 午後1時半~
  稚児行列 舞楽「迦陵頻 蘭陵王」
  鼓隊パレード
  ステージにてブットンくん、赤本くん登場

 午後2時半~
  御遠忌法要(新本堂にて)
  出仕 総礼 登高座(稽首天人)
  三帰依文 表白
  読経 仏説阿弥陀経 散華
          下高座(直入弥陀)
  正信偈 草四句目下
  念仏讃 五淘
  和讃 三朝浄土ノ大師等 三首
  回向 願以此功徳

 午後3時半~
  満座の御礼
   棟梁・設計士・監督さんに花束
   建設委員 謝辞

 午後4時~
  音楽法話 近藤龍麿氏(ギター)、天白真央氏(シンセ)

 午後5時 終了予定


≪落慶法要時の駐車場≫

 身体障がい者、お年寄りの方の送迎を除き、境内への車の進入をご遠慮いただきます。特に26日は稚児の参加者で、大層な混雑が予想されます。両日とも自転車置き場、ベビーカー置き場を設置します。公共交通機関をご利用くださるようご理解、ご協力をお願いします。


≪春の彼岸法要≫

 時節柄、春の彼岸ですが、本年に限って春の彼岸法要は、3月19日(日)午前7時からのおあさじの時間帯にお勤めさせていただきます。およその終了は午前8時です。


≪仏具のおみがき≫

 ご本尊・仏器・経卓など本堂用の什物すべてが八尾市の仏壇店に保管してありました。3月9日に4年ぶりに里帰りしました。16日(木)午前10時から、おみがきをします。真鍮製の鶴亀、香炉、花瓶、輪灯などの仏具を磨きます。お手伝いくださる方は、ぜひご参加ください。

 その他の仏具が洗濯、修理されて、八尾市の松本仏壇店から本堂に納められています。2月10日に拙寺の仏具に蒔絵を描く作業が松本仏壇で行われていました。その場に、テレビ番組『和風総本家』のカメラが入って収録しました。3月9日の2時間スペシャルで放送されました、関西地区でのこと。はたして東海地方の放送日は?


● 25日は法要と法話の時間帯を除き、東本願寺・難波別院から「ゆるキャラ」が出向し、特設舞台に登場します。26日は稚児衣装返却後に、ゆるキャラと記念写真を一緒に撮ることができます。

● 本堂造営にあたっては、ご門徒各位、有縁の方々のご懇志をもとに、ようやくにして完工まで辿り着きました。ここに厚く御礼を申し上げます。今回、新本堂の造営にご懇志を届けてくださった方々さまには、4月末までに記念の品を郵送させていただきます。
                        住職 役員 建設委員会

● 3月28日は徳風保育園の第92回の卒園式です。例年は遊戯室で行われるが、本年は新・お御堂で挙行します。卒園児さんの思い出の一コマになるようにと願って。


この先、200年以上、願い続けるご本尊・新本堂の第一歩です。皆様方の参詣をお待ちしています。






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発行所
真宗大谷派 称念寺
発行人 住職 伊勢徳