寺報 清風







            輪廻する旅人


 1月も半ば過ぎ、私は家族と共に真夏の豪州メルボルンの街中にいた。東本願寺の同僚で私よりやや後輩の僧侶が結婚するにあたり人生初の仲人を頼まれ、相手の女性がメルボルンに音楽留学していることから当地で婚約記念パーティーをやりたいという。そも飛行機恐怖症の妻は自ら海外には行きたがらないが、オーストラリアは我々が邂逅した故郷である。娘達も私の影響で旅に興味を抱きつつあり、それならと大胆にも1週間学校をサボらせ連れてきたのだ。家族5人分なので遠回りだが安価なタイ航空を予約し、バンコクでは鞄を枕にベンチで仮眠し乗り継ぎ、その前夜に漸く豪南端に位置するホテルに到着したのは金曜夜に自宅を出発して実に29時間後のことであった。

 午前中は無料のトラム(路上電車)に乗りカフェを巡り、昼過ぎに会場となる郊外のブランズヴィックへ移動する。私に加え3人の先輩後輩の仲間が渡豪、間衣と輪袈裟を着けステージ中央に掛けられた本尊「南無阿弥陀仏」の軸の前に座す。事前に録音された私の叔父の雅楽の演奏に合わせた5人の僧による「伽陀」の勤行から始まった、黒人白人アジア人のミュージシャンや友人らが集う賑やかなパーティーであった。新郎挨拶の逐次通訳も無事終え、貸し切られたバーで飲めや踊れやと大騒ぎしながら、無二の朋友の新しい門出を見守った。振り返れば本山の研修会に、恐れ多い先輩らを含む100人以上の僧侶が全国から集うなか、新米としてツイストの髪形で現れ何を思ったか「一番怖そうな人に最初に声を掛ける」と決意し、喫煙所で挨拶されたことが彼との出会いであった。以来、共に学び、大いに飲み語り濃密な時を過ごしてきた。昨年一緒に入った京都のバーから遠距離電話でプロボーズし、いま伴侶を定め懸命に生きんとする彼の姿に涙腺が緩んだ。

 3日目は自由時間、朝からヤラ川沿いの木漏れ日の遊歩道を散策し、子供達も無邪気にシーガルやスズメに餌をやり大はしゃぎ。遠目から賑やかな場所に行くと意外にも全豪オープンの会場初日であり、王者大阪なおみの初戦に人々が沸いている。隣接する無料遊園地で娘達も大満足であった。当初は赤信号を安全に渡るなど文化の違いに戸惑いを見せたが、自由な人々と街の雰囲気に魅了されハワイ生まれの次女も将来メルボルンに住みたいと言い出す次第、まさに「百聞は一見に如かず」である。その後レンタカーを借りに行く。日本と同じ左側走行だが、信号のないラウンドアバウトあり、特に市内は中央がトラムで片側2車線のうち右折が左車線からという変則的な交通規制に気を付けホテルに戻る。夕方からは別行動、私は新婦が働いてきた中心街にある和食レストランの奥座敷に招待され、仲間内で改めて祝いの席に着いた。翌日はシドニーまで10時間運転するため、名残惜しみつ夜半2時半にホテルに戻り熟睡した。

 早朝荷物をまとめ車に乗り込む。出発前に懸念したルート上の山火事も待望の雨で鎮火しており、燻ぶった荒野が続く内陸部を延々と北上した。途中2時間ほど妻に運転を交代してもらい、憔悴しきり宿のあるダーリングハーバーに到着。長年家族ぐるみで付き合いのある上海在住オーストラリア人の親友スティーブが、偶然シドニーに帰省しており夕食を共にした。肩幅ほどもある蟹は甲羅が分厚く、中華の味は絶妙だが中身はほぼ食べれず。一人旅に比べ出発準備から大変で、食事の嗜好はじめ旅の安全、全員の体調管理も気になった。学校のインフルエンザ、妻の下痢、二女は鼠とゴキブリが蔓延る屋外で錆びた安全ピンを踏み、傷口が青い斑点となり抗生物質を投与したり、不安ながらも順調であったが一度だけ肝を冷やした。

 その日、子供達も非常に楽しみにしていたボンダイビーチへ出掛けた。快晴の青空に細かな白砂、白人のヌーディスト達で賑わうなか、3人の子供達と海へ入る。遠浅の海辺では私の腰上程の海面に2、3メートルの波が次々と打ち寄せ、周囲の人々の歓声が響く。長女と次女は浮き輪を共有していたが次第に沖合へ、私は三女を抱き浜に待機していたライフセーバーに救助を依頼した。即座に水上ジェットで現場へ、戻って来た二人を旅で初めて叱った。以後、日本と異なる常識や留意点など良く聴いてくれた。英泰の現地語で「こんにちは」と「有り難う」を丁寧に、機内の注文や時間通りのパッキングもできるようになり、実際この旅での子供達の成長には目を見張るものがあった。少々落ち込んだ2人を、今度は一人ずつ浮き輪なしで深く巨大な波の箇所まで連れて行き満喫し、再度スティーブ親子と夕暮れに佇むオペラハウス脇の生カキ屋で食事を共にした。

 シドニーの3日目は気温が41度、酷暑で買い物よりはと末っ子と快適なホテルのロビーで読書しやり過ごす。夕方にシドニー工科大の同級生スコットと再会、大手銀行員となった彼はバイリンガルで完璧な日本語を話し子供達も慕う。都心に聳える懐かしの大学本校ビルまで散歩した。ここが私と妻が初めて出会った場所であり記念写真を撮影。あの時の私に、結婚し子を授かり戻って来た今を想像すらできようか。私が一時帰国した期間、悪い虫が付かないよう宜しく頼むと託したのがスコットであった。当時アボリジニーの居住区で最悪の治安にあった周辺は再開発で洒落た地区となり本格イタリア料理を平らげ、21年前に寂しげな彼女を飲茶(ヤムチャ)に連れ出し課題の支援もしてくれた事など昔話を初めて聞くことができた。食後に綺麗な花々で飾られインスタ映えする、街で3本の指に入るタピオカ屋に子供達が喜んだ。蛇足だが夜半カジノに入店拒否され、腹癒せに妻と二人で近所のバーで千ドル程勝ち逃げしたのは幸運であった。

 最終日はバンコクへ飛び、午後3時半に着いた空港からは渋滞で安宿への到着は2時間半後。大都会の幼子の花売りや河上バラックに路端の物乞い等、学校で習った経済格差を目の当たりに修学ともなる。寺参りには遅すぎたが、2人掛けのトゥクトゥクに鮨詰めで5人乗り込み船着き場へ。料金1人4バーツ(16円)支払いチャオプラヤー川を渡り「暁の寺」ワットアルンに参詣、ライトアップされた荘厳な仏塔前で家族一緒に念仏し、パーリ語の三帰依を唱和した。そしてバンコクがハブ空港だった頃に何度も訪れたカオサンロードへ、私にとって雄大な自然の風景より血が沸く、世界中のバックパッカー達が集う喧騒は昔も今も旅の原点であり子供達に見せたかった。もと小さな露店を拡大したお気に入りのパッタイ屋で極上のトムヤムクンも食べ、足マッサージで旅の疲れを解し、翌日に中国の春節を迎えたバンコクをあとに帰国した。

[文章 若院]

 
 大谷派5人衆でお勤め            シドニーのボンダイビーチ

  
 グラサンを新調した三女             28階建ての本校ビル前にて


 須弥山を象徴する仏塔


欄外の言葉

 「こうすべき」と正しい人がいると家族のなかも大変になる 高柳正裕

 私達はいのちそのものでなく、付加価値に依って生きている 佐野明弘


≪若院の伝道掲示板≫
 白鳥二羽 湖光を曳いて 帰りけり  石原八束


≪蓮如忌 命日3月25日≫

 本願寺第8世、室町後期。寛正6年、越前吉崎に移った以後、その発展がめざましかった。のち山科本願寺を建立。(1415~1499)著書では折々の消息をまとめた『御文』が有名。


≪春彼岸・収骨のご案内≫

 称念寺では年行事の法要の際、収骨の受付を設置しています。「歯骨箱」を新本堂の本尊裏に安置し、その後に一部を本山の報恩講の際に東本願寺にも収めます。一体2万円にて、申込用紙は受付にございます。なお用紙はホームページからダウンロードもできます。


 土筆煮て 飯空夜の 台所  正岡子規


● 相続講 於 本堂 5月20日(水)午前10時
   法話 井野優介 師

● 日曜おあさじ 於 本堂 6月28日(日)午前7時
   法話 藤本愛吉 師

● 法要について
 法要(行事・法事など)は通常通りお勤めしますが、新型コロナウィルスの感染拡大防止の為に各自留意して参詣くださいますようお願いいたします。こんな時節こそ、「今だけ、自国だけ、自分だけ」の日頃の心を見直しましょう。






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発行所
真宗大谷派 称念寺
発行人 住職 伊勢徳