寺報 清風







            信心の分水嶺(上)

 仏法を共に聞き合うため友人らと北陸の寺へ寝袋を持参して赴き、その帰ってきた翌日の朝、当地の鈍重な雪質とは比べものにならないが、なお寒々と煩わしい小雪が散らつくなか保育園の裏へゴミを捨てに行った。すると3日ぶりに私を発見した最初となる、園舎2階にいた女の子の「あー!雪の中に園長先生がいるー!」という、周囲の友達に知らせた甲高い澄んだ大声が聞こえ、ありのままの世界と私をなんと素直に観てくれたと云うか、そも子ども達に名を呼ばれることは、それだけでとても嬉しい。寺に居ながら門前の梅の開花にも気付かず、両親の長年のツケで幾十も溜まった案件と仕事の優先順位をあれこれ算段しながら、不機嫌に園庭の足元を見つめ歩いていた私に引き比べ、小さな人の眼(まなこ)の在り様を改めて教えられた。

 様々な体験や知識を得た私達大人は、自分が大事だという以外に、信ずるに値する何かを信じているだろうか。信念、と置き換えても良いが、人生で最も大切なことを子どもに尋ねられ、自身の死後にも残して欲しいと願うようなことは一体何であろうか。例えば「家族が大事だ」と、これは条件や都合で簡単に覆る一時的個人的な想いに過ぎない。何故なら、家族内でも自我が争いの種となり、「私はこう思うのに何故あんたはそうしないのか」などと、縁により最も身近な家族の存在が深い苦悩の原因となることは大いに経験があろう。核家族が主流で離婚率も高い現代ですら、国内の殺人事件の半数以上は親族間である。または「健康が大事だ」と、これも同様確かに間違いないが、死なずとも失われるまでの束の間に自分だけ健康でも、健康でない人もおられる限り、更に言えば連れ合いや子供に障害や不治の病などあれば、途端に崩れ迷う程度で信じ得る事柄として全く当てにならない。

 さすがに「命は大事だ」となるが、或いは平和や平等も含め、これも現実には偽善あるいは虚仮である。動物虐待の概念にしても犬猫は対象となるが、牛豚や鳥が惨殺されても問題とならないのは唯、人が食用するという都合でのみ身勝手に線引きし、隔たれた枠外の排除には、生活感覚として「あいつさえいなければ」などと人間である他者、ひいては中心にいる自分をもが含まれる。「事故で下半身でも失ったらお終いや」と自殺などしない自信のない私が、自殺や殺他に善悪の評価などできまい。私達は最も悲惨な戦争を他国あるいは過去に見る善人だが、出生前診断による堕胎、安楽死や損得による延命治療の拒否、医療現場のトリアージ、そしていじめ、障がい者や老人の差別と排除、労働者の格差、放射能の垂れ流し等々、暮らす社会の凡ゆる局面に於いて、利害で殺し殺され合う関係性の闇に目を瞑るだけである。因みに留学前に家庭教師として算出された10代の私の価値は、時給7000円の東大生の丁度半分であった。

 その他諸々、その場の充実感や悦楽は得られるが「その為に生まれてきたのか」と問われれば説得力のない、もちろん後世に残る名曲、天下一の収集や唯一無二の匠の作品などは些(いささ)か異なるのかも知れないが、やはり趣味や道楽、グルメ、仕事に家庭、酒、性、ギャンブル、凡ゆる種類の欲望を満たす行為への信念では満足できないのが人生である。通じ合えない人間関係や思い通りにならない日常全体、また避けられず戻ることもできない無常たる老病死により、最も肝心なことが欠けたまま終える人生全体への虚しさ悲しさが照らし出されるのだ。それは、いつ死ぬかわからない命だけれども、何時になっても病気が怖く、あっという間に時間が過ぎて不安に思うまま、明日はまだ死ねないという私自身が証明している。決着に加え未来の希望すらないので、どうしても「金さえあれば」などと、足らない物を求め妄念するという惨状で生きるしかないのだ。

 こうした人間とその世界の相(すがた)に目覚め、道を求めたのがお釈迦さまであった。神道は例外的に経典も教えもないが凡(およ)そ宗教では、教義と善悪という方向性と生き方を信仰の対象としたのは原始仏教も同じである、と私は思う。殊に浄土真宗では、勉強でも知識でも修行でもなく、又その結実たる人格や心の持ち方でもなく、その核心は「信心一つ」と伝えられてきた。僧侶も同じだが、守るべき戒律やルールは一切なく、ただ教えの通り「南無阿弥陀仏」と念仏を何度唱え行じても、変化も有り難くも何もないのは周知のことである。それでは意味がないのでやはり「信」が要(かなめ)となるが、ここに現代の文明社会に暮らす多くの人々は、特にオウム真理教事件を経た日本人は、迷信は良いが宗教の妄信は危ないとアレルギー反応を起こすのだ。

 私が先進国アメリカに暮らした当時も、全知全能の神(God)が世界と人類の祖先アダムとイブを創造したという原理に反するからと、公教育の場で進化論を教えることが州法で禁止された箇所が、主に共和党支持エリアに十数州あったよう記憶している。さらにテロリズムに代表される、現在では約15億人ともなる信者を擁する、イスラム教ジハードで天国に生まれ変わるとの信仰の危険性は、これもタリバンの社会を旅しコーランを読み、大いなる誤解、否、差別であろうとも私は思う。まあ、戦時中に国家神道をして天皇を唯一神と祀り上げ、その利用価値を熟知したうえ為政者が明治以降に主導した敗戦に、当時誰もが苦しみながらもナチス同様、正義に立ち鬼畜米英との戦争に狂喜した自分達のことは他所に、「政府に騙され悲惨な目にあった民衆」と歴史的表裏への偏見の自覚がないので、憲法や反省など関係なく縁に依り日本人も再度戦争を繰り返すに違いない。その結果、仏教で云う穢土や地獄を所謂現実として、そのなかで自己責任、選択や努力次第、延いては生きる能力も精神も強い者が勝つと「自力」を信じるのだ。いずれにせよ科学的物証主義に立ったうえでの信仰でなければ、という思いはたまたま真宗の寺に生まれた縁があっただけの私自身も同じだ。詰まるところ科学に反しない宗教を信じる、科学に准ずる私が信じることのできる教えなら、という態度で臨んだのであった。

 であるからこそ釈尊の悟りの内容、あらゆる世界や物事は常に変化し同一であることは一つもないのだという「諸行無常」や、私の命だけでなく一つの点だと思われる些細なことも、数限りない無限の原因(因)と条件(縁)をして広大な世界へと繋がり、逆にそうした世界が成り立たせる元の出発点である私自身や全ての物事が尊いのだと教えられた「縁起」、また意味は省略するが「四苦八苦」という仏教の教えは、文化や宗教、人種や時代の違いに関わらず、また分別をしてなお反論する余地のない「真理」であることに私は安堵した。だが学び得た教えを自他の人生に役立てる為により理解しようと聴聞し続けたが、その種の了解は何ら答えではなかった。目前の現実には迷いと苦悩しか見い出せず、聴聞を歓び頻繁に場に通いつつ尚これだと云う信心が得られないので、「ただ念仏」などという教義そのものへの疑惑が拭えず、また難解な教学の道はとうに諦め自ら確かめる術がなかった。聞法だけが頼りであり、出会う先生や法話師の選択が悪いか、又は聴聞や学習の努力が足らないかに違いないと感じ続けた。やがてむべなるかな、実はその「私」という出発点こそが間違っていたことを善知識(よき師)より教えられたのは、随分と後年になってからのことであった。

[文章 若院]


欄外の言葉

 真宗は世界観の革命である  武田定光

 一番否定していた自分が自分であった  佐野明弘


≪若院の伝道掲示板≫

 苦しい時 見える与えられし 我が世界

 都合を超え 老いと病気で死ぬ 命の道理

 地図見ても 居場所わからぬと 迷い続ける


≪あとがき=今年こそは≫

 コロナ禍にあって、ワクチン接種後に!と少し意気込むが、その後私が元気でいるかは保証なし。「明日には紅顔あって、夕べには白骨となれる身なり」、「今日とも知らず、明日とも知らず」が仏法でした。他人事でない。

 浄土真宗では「仏法聴聞」で“生き方”を問い、前に進むことをモットーとします。このような時節だからお寺に足をお運びください。何かが見つかりますよ⁉

[住職]






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発行所
真宗大谷派 称念寺
発行人 住職 伊勢徳