寺報 清風







            「お育て」の教相

 日曜日はおあさじ出仕に早朝家を出るが、法事に出向く前の或る土曜の朝。目が覚め私が便所へ行く物音を聞き、三女も布団から出てきたので暖房をつけ、自分の珈琲ついでに彼女にも紅茶を淹れる。高校2年の長女も顔を出し、前日には塾へ行き、3日前に買い出した食材で調理した夕食の海鮮トマトパスタを食べていなかった彼女に、一人分の麵を茹であげた。セロリを放り込み尚、前夜に若干磯くさいと評されたので臭い消しにとナツメグを加え、食べにくかった小さなアサリの貝殻を予め取り除き、更にチーズを混ぜ差し出した。三女には次女を起こすよう促し、2人分の朝食準備に掛かる。大振りの肉類が苦手な三女の為に、残り物のソーセージを細かく刻み、小松菜と卵を和え塩胡椒とカレー粉を塗しアジア風味に。冷蔵庫のトルティーヤにチーズを乗せトースターで焼き、炒めたオムレツをのせ与える。パキスタンの朝食「パラタ」である。

 鍋を洗っていると、最後に起きた妻が長女に洗面所の使用に関する小言を伝え、朝食を食べる子供達と談話する声が聞こえる。家事を折半することで、共働きの妻に家族との時間が増えることは嬉しいことである。成長と共に、殊に私の様に元来のガサツ者より、女同士の話が通ずる年頃だ。私は家族の為に働き、家賃と学費を払い、食事を食べさせればよい。夜には関東の友人が来る予定で、夕食に関し擦れ違わないよう、前もって妻に伝える。学生時分は平気で2週間でも流しに食器をほかり、カビが生えると水を溜め洗剤を垂らし更に放置していた私にとって、こうした「丁寧さ」こそ、仏教の世界で「そこに人がいる」と初めて教えられた姿勢である。これぞ仏教の善き教えだというのでないが、寺の奥の院での修行では家族生活の実感がない他宗と異なり、「在家仏教」の浄土真宗だからこそ大切にわきまえている。三人共完食するのを見届け、残りの食器を洗い自宅を出た。

 ところで、この前夜。三女と風呂に入り、妙に納得させられたことがあった。学校での『枕草子』の暗唱試験で、春夏秋は問題ないが冬を覚えるのに苦労したと教えてくれた。「春はあけぼの」程度は記憶にあったが「冬は何やったっけな?」と聞くと、「冬はつとめて」早朝が良いと、雪の降る朝も霜の朝も、寒いので温まる為に炭をおこし云々。浴槽に浸かり「ああ、そうであったか」と、平安時代に生きた清少納言と同じ感覚を、遥か時代を経て私が共有していることの不思議さを想い起されたのだ。成る程、文明や科学技術は進化しても、当の人間はヒトとしてのまま変わらない。

 今から約2500年前に生きたお釈迦さまの教え、つまり仏陀の教えが仏教である。その内実は、人は皆「無明の存在」なのだという目覚め、無明とは「智慧(仏智)に明るく無い」ことである。これは私たちが知識や物事を知らないというのでない。その逆で知りすぎて、或いは百科事典が無くとも何事も官位に検索できる時代背景にあって、本当のこと、大事なこと、自分自身について、知っているつもりの傲慢から何も見えていない、私達の在り様の事実である。証左に私自身、人生経験が増える程に価値観の正当性、言い換えれば「私が正しくて他が間違っている」と尊大になり、また何事につけても「こういうものだ」と物事を決めつけるようになった。世界中の人々が、勿論身近な人も含め、様々な背景をして生き方、考え方に差異(ちがい)がある。だから自見を鵜呑みするならば、世界中の人が間違いとなる。コロナも含め、誰しも「思い通りにならない人生」に身勝手な不満や愚痴ばかりでもある。

 私は常々、人生や社会の苦悩に対し、解決に至る「処方箋」が仏教にあるのでないかと教えを聞いてきた。夫婦の拗れや親子の課題、家族が抱える諸問題、自身の病や老い、否、根本には自分の弱さ尊さを自信を持ち認められる根拠が欲しかった。そう自分の「在るがまま」を受け止めるべく、内心求める答えを仏教に求めたのだ。だがそれらは須く、単なる理想的な生き方や心の持ちようであり、大乗仏教でも真宗でもない。感謝も平等も平和すら、嘗ての軍国主義と同様、思想の迷妄であった。問題の多い人間関係についても然り、ある先輩に教えられた、忘れることができない厳しい示唆があった。曰く「自分が楽な時は目の前の人が苦しい。逆に自分が苦しい時は目の前の人が楽なんや」と、酔席の説教も皿洗いも原点は同じである。しかし「だったらどうすれば良いのか」わからず繰り返し迷うのが私達の現実であろう。

 そこに南無阿弥陀仏とは何か、なぜ家に仏壇があるのか、何の為に合掌し手を合わすのか、頷く手掛かりがある。教えを聴くとは、身の事実を聞くこと、生きることの迷いを教えられるのだ。結局、我が人生に納得したかった、言い訳をせず楽に生きることが幸せだと想っていた。感謝の気持ちは自己都合、他人への批判は邪魔を排除したい身勝手、「教えてやろう」との助言も自分が正しいという勘違いであった。人生はどう生きても思い通りにならず苦悩する。しかし無明の闇がひとたび破られ悔い改めたところで、煩悩と邪見はなくならない。大切な人を亡くした悲痛に私達は右往左往する。だが、悲しきときは悲しい。その悲しみを無くすのでなく、悲しみの根源である大事に眼が開かれる。聴聞の肝は、仏教では「どう生きるか」は教えられず「ただ縁に依る」のだと、迷いを超越する目的では聞こえない。我が身を通して教えられること。それは探し求めた答えなどでなく、全く心に掛けない形で照らされる。ここに「回向の宗教」としての浄土真宗がある。

[文章 若院]


欄外の言葉

 「お育てのなかに人生が過ぎ行く」と昔から言われてきた 佐野明弘

 自分が思っていたことと、仏法によって与えられることは全く別物である 池田勇諦


≪若院の伝道掲示板≫


≪講師紹介≫

三島清圓 師
 昭和24年生まれ。三島先生は、54年にハワイ開教区の開教使として渡米した若院の大先輩です。鋭い視点でわかりやすく仏教の教えを伝えてこられ、念仏とその生活言語についてのベストセラー著書『門徒ことば』(法蔵館出版)は、称念寺のおあさじで参詣者と共に輪読しました。高山市国府町の西念寺住職、東本願寺同朋会館教導。
 大切な亡き人の彼岸をご縁とし、是非どなたも共にご聴聞ください。


≪若院著書(絵本)の紹介≫

 徳風保育園を卒園する子ども達へプレゼントする絵本を作りました。タイトルは『ほんとうのこと、おしえて』(石田絵本出版)、著者名は「えんちょすけ」として、アマゾンで販売しています。寺にも少し在庫があります。小中学生までの子どもさんへの読み聞かせ絵本です。


≪日曜おあさじ特別法話 予告≫

5月29日(日)午前7時
法話:スマナサーラ長老(テーラワーダ仏教僧)

 日本語が堪能なスリランカの傑僧がお寺に来られます。寺報『清風』次号にて詳しく紹介いたします。






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発行所
真宗大谷派 称念寺
発行人 住職 伊勢徳