寺報 清風







           割れた皿は諸仏か


 立春を間近に控えた或る日の晩、台所から妻の文句が聞こえてきた。確かに独り言ではない、私の耳に届く大きさの声が聞こえ、居間のソファに座っていた私はと云えば、反論も謝ることもせず、憮然として何もしないでいた。仏道遊行の利益というのでないが、これまで考えもしなかった大事な視点や仏心にも納得し、多少なりとも反省した頭で「有り難い」という感謝の気心も大切にしてきたつもりではあるが、そのことで夫婦仲や親子の問題、その他様々な人生の課題が解決するわけではない。煩悩を減らすべく真摯に生きたお釈迦さまならいざ知らず、否かの師も同様であろうが、特に真正直に生きた人間親鸞には直に尋ねなくとも、私と同じ煩悶があったに違いないと、『聖典』を通してその言葉に触れる折には、そう身近に感覚することが多くなった。

 事の始まりは、その10日ほど前に妻が買って来た、淡い綺麗な水色の、波打柄の小皿であった。3人娘の数を入れて計5枚あり、そのうちの1枚が、私が皿洗いをしている最中に割れてしまった。毎日の炊事なので時短に努め、多少は乱暴にシンクに放り込んだのかも知れないが、食器を重ね置いた際に端が欠けたので、誰かが怪我をしてはとゴミ箱へ捨てたのだ。実際「まだ新しい皿だから怒るだろうな」との心中の思いが、自発的な報告を遅らせ、不意に発覚した場面ではあった。だが皿が割れたのは、妻も珍しく私用で外出していた際の事故である。坊さんの先輩後輩の丁寧さを見習い、私は寺の掃除だけでなく、共働きで妻が残業で遅いこともあり、最低限の家事も担ってきた。果して妻にとり理想ではないのかも知れないが、伴侶としては及第しているはず。感謝されこそすれ、文句を言われる筋合いはないと感じられた。

 そも私からすれば、幾らの代物かは知らないが、日常で使用する食器のうち皿など消耗品、安くて良い物など何処にでもあるので、執着などせずに割れたら買えば良い。また、刺身の醤油皿には大き過ぎるし、おかずの取り皿には小さ過ぎる、申し訳ないが正直私からすると、使い勝手は余り良くないとも感じていた皿だ。ゴミ袋やサランラップでもそうだが、どうせ使うからと私は余分に買い置きする派だが、皿でも割れることを見越して2、3枚、余分に買っておけば良かっただけのこと。割れた時には思わず「チッ」と舌打ちし、「割れやすい皿だなあ」と更にすら責任転嫁し、小さな遺恨も覚えた。しかしながら、私が「うるせえな」と言い返した上「ああでもない、こうでもない」と詰まらない夫婦げんかになればお互い悲しいだけだし、家族とはいえ時折、変な気まで遣わせたりしてしまっている傍ら子供達も嫌な気持ちになろう。

 篤信の三河だけでなく、全国の真宗門徒には、こうした日常の出来事は、誰が正しく何が間違っているのかという善悪の問題ではないと、寺の本堂や家の仏間で教えられながら、人生を歩んできた歴史がある。繰り返し法話で聞いた件だ。私達の自我は、自分でお皿を割った時は「皿が割れた」と、恰も自分には責任が無いように語り、自分以外なら「誰が皿を割った」と誰かのせいにする。聴聞の場では笑いながら、だが人間の本質としてハッと共感させられてきた見事な例示である。この娑婆で、仏の願いを生きることが難しいが、苟もその仏の眼をお借りするのだ。ことは「お恥ずかしい」では済まず、この自己中心という「邪見驕慢」の根っこが、私達の日々の感情や他人の噂話、苦手な人との仲違い、大切な人の為の行動のみに留まらず、現実の戦争や差別、原発や環境破壊にまで、どこまでも繋がるのだから「後生の一大事」なのだ。

 ところで、役目を終え捨てられたあの小皿も、こうして寺の新聞にも紹介され、仏法伝道のご縁にもさせていただいたので、既に「仕方なく割れた皿」のまま往生し成仏していよう、とは少々乱暴なのかも知れないが、私の方では、どうにも「ごめんなさい」という気にはなれなかった。こういう所に、人間の心の歪みの、その複雑さがある。相手の立場を慮り、小声で「ごめんね」と伝える位なんの事はないが、それも非難されてからでは乗れない話だ。よく「私なぞは」と謙遜する人も、お前はバカだと人に言われれば腹が立つ。だから私は、少し我慢して、黙り込むが一番の得策だと判断したのであった。

 世間では何かすると「あいつがどうだ、こいつは酷い」と、朝から晩まで、皆で自分の都合に合わない人を批判ばかりしている。反対に、自分自身の過去に関しては、同じ過ちでも「あの時はしょうがなかった」と、こちらは言い訳も成立していよう。人は盲目的に、常に「自分が正しい」と、即ち間違っているのは相手だと、幻想の正義で互いに地獄を作り出す。この現実こそが、お釈迦さまの悟られた、人間存在の核心である「無明」ということである。君はまだかも知れないが、私は物事がわかっている。私と違い、何故あなたは人の話を聞かないのか。どう考えても相手が悪い。善悪の分別もできる。一生懸命に苦労も経験もしてきたから、俺の言うことを聞いときゃ間違いないんや、と。浄土真宗の教えでは「自力の執心」と、言い当てられ胸に届く時、それが転じて入門の鍵と成る。

 真実は、たとえ「ほらね」と証明せずとも、少なくとも我が偏見では相手の善悪は判明しない。また「私だけが悪いのか」と、相手も過去に同じ過ちがないのか問い返す必要もない。先ず私が悪い。そのことだけは間違いないに違いない。そう凡夫という、実存そのものの本質が聞こえたら、あとの「生き方の問題」は業縁に依るので、大乗仏教の真髄には「こうしたら良い」という模範解答はない。縁により何でもしでかす。こう我が身を通して知らされる処に信心があり、その一体である「無有代者」や「無常」という国土の根源に驚かされる。聴聞させていただきながら苦労して、辛うじて生きるという、かけがえのない尊きそれぞれの人生が、孤独で互いに迷いながらも縁により交差し、実際には親近でも分かり合えない関係も多々あるが、ときに支えられたり響き合ったりして、私達は目の前の出遇った人たち全てと最期には必ず死別する、老病死する命をして、二度とない時間を共に生きている。この事実の確かめが、手を合わせ念仏するということの中身なのだと、先達から教えられてきたように私は想う。

[文章 若院]


欄外の言葉

 自分が相手を理解できると思っているが、どんな人も私の理解を超えている  高柳正裕

 「どうしたら良いか」とばかり考える、人間の根本的な誤りに気付くかどうか  本多雅人


≪若院の伝道掲示板≫


≪講師紹介≫

沙加戸 弘(さかどひろむ)師

 昭和21年生まれ。滋賀大学教育学部を卒業後、同県公立学校の教員を経て、後に宗門の大谷大学で教鞭をとる。国文学と仏教文化に造詣が深い。大谷大学名誉教授。著書『親鸞聖人御絵伝を読み解く』(法蔵館出版)他。
 先生は初めて来寺され「唯説弥陀本願海ー願われている身ですー」との講題にてご法話いただく予定です。聴聞にお越しください。


≪彼岸のおこころ≫

 毎年お彼岸の時期になると、お寺やお墓にお参りする方々が多くおられます。日常では「もっと年金があったら楽なのに」、「私は健康のまま長生きしたい」、「嫌な人とは会いたくないな」などと、目の前の条件ばかりを意識して生活している私たちです。お彼岸として、先に命を終えていった家族を偲ぶことで、改めて自分の人生に向き合う機縁としてきました。

 故人と今、出会い直すことができたならば、私たちに何を語り、問い掛けるのでしょう。南無阿弥陀仏。


≪正信偈学習会≫

日時  4月6日(木)午後1~5時半
会場  称念寺本堂
参加費 5000円(当日申込)
講義 四衢亮師(高山教区不遠寺住職)


≪日曜おあさじ特別法話≫ 

日時 6月18日(日)午前7時
法話 保々眞量師(熊本県光行寺住職)






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発行所
真宗大谷派 称念寺
発行人 住職 伊勢徳