寺報 清風







            読経のセレンディピティ


 法事をお勤めした後、施主の「安心した」、「スッキリした」という意味の言葉をよく聞く。日々忙しいがやらないかんと、親族に声を掛け、坊さんを予約し読経してもらい、故人が喜ぶ供養をしてもらった。そのことを無事終えることができたという率直な気持ちであろう。しかしながら「お経」とは仏説、かつてお釈迦さまが語られた説教を、滅後に弟子らが記録しそれが漢訳されたものであるから、釈迦自身が経を読んだことは生涯一度もない。また『歎異抄』の「親鸞は亡くなった両親の供養のために、手を合わせ念仏したことは一度もない」という言葉からして、平安時代以後には修行を完遂する行者も、煩悩を滅し悟り得る者もない末法の歴史の只中で、大乗の真実を愚直に探し求めた浄土真宗ということにおいても、毎日法衣を着て良い声で経典を読む、悪く言えば世間話を添えた「お経の配達」という、全く教義とかけ離れた僧侶の生業に長い間、疑問が尽きなかった。

 振り返れば、10年前に米国より帰国してすぐ、僧侶としての自分に躓いた決定的な転機があった。ある事件に巻き込まれ命を失った、当時7歳の小学生の通夜前の枕経であった。寺の近所に住む祖母にあたる方は、幼少よりお世話になり旧知の間柄であったにも関わらず、私は一言も言葉を発することができなかった。あの時ああしておけば、こんなことなら等の後悔は意味もなく、一人娘に授かった唯一人の孫である男の子の死に「本当に残念でした」、「可哀想なことです」など、どのお悔やみの言葉も間に合わない遺族の悲痛に打ちのめされた。どれほど愛しい孫でも身代わりになれなかったのだ。しばらく言葉を探し続け、結局見つからず無言で佇み、ただ読経して席を立った。完全に坊主失格だと項垂れそして、果たして真宗に於いて無常の現実に向き合える道があるのか、私なりの聴聞修行へと背中を押された。

 以来、縁ある師や先達の姿勢に導かれつつ、本山・東本願寺に足繁く通ってきた。大阪のあるベテラン住職も、同様に苦しい状況での枕経で「ただ泣きなさい」としか、適切な言葉などなかったという。また違う先生からは、枕経には読経数分あとは約1時間、話を聞き法話するという示唆も受けた。多くの死の現場に立ち合い、それはもう様々で、出産予定日の前日に胎内で死んだ赤ちゃんの葬儀から110歳を超えた方、若い母親に跡取り息子の死、周囲の家族に感謝しながら、死にたくないと絶望しながら、治した癌が転移した、病院や施設あるいは風呂場で命終えていく、そのすべては縁に依る。老衰、病死、事故、自殺、急逝そして孤独死と、年齢も順序も死に際も、選択の余地なきただ在るがままだ。そのうちに、私が為すべきは大切な人の死の悲しみを一時的に和らげたり、引き受ける為の言葉掛けでない、また「長生きした人が大往生」なのでないとわかってきた。何故なら、どの人の死にも「仏のはたらき」があると教えられたからであり、その意味を共に聴くことが枕経の肝要だと私はいただいた。

 譬如日光覆雲霧 雲霧之下明無闇 『正信偈』

 たとえ尽きない煩悩で、あらゆる人のいのち全体を輝かせる世界が雲に覆われ見えなくとも、人間が何処に立っているか、念仏で照らされた足下に闇はない。(意訳:若院)

 諸仏のはたらきは残された者に呼びかける。「苦しまないで死んだので良かった」という安堵に対し、誰しも死に際を選べないのだから苦しみ死んだとしても人生の価値が下がるのでない、と。「まさか今日、こんなはずでなかった」との妄想には、そもそも思い通りの「はず」の人生などないのだ。また「実感なく信じられない」人に、二度とない日常を当たり前にしてきたのかと問いかける。立ち止まってみれば、私達の身体に備わる生死の根幹、即ち呼吸、心臓の鼓動、血液の循環、食欲、排泄、睡眠、はな誕生から老化、病気、死に至るまで、生きる気力すら、頼るべく築いたちっぽけな自力の範疇でない。死に目に会う会わないも縁次第。人生は無常。生命は儚い。その賜った寿命から照らされるのは、都合の良い予定調和のみを是とする私達の生き方である。慙愧の内実が明らかになるのだ。だから、初めて死に直面する子供達には「死は自然なこと、生まれてきた人は皆死ぬから君も死ぬんやで。悲しいことだけども悪いことでないよ」と伝えてきた。

 お釈迦さまの誕生の物語には、「天上天下唯我独尊」の世界が伝えられている。明日死ぬかもしれぬまま、10年後を想い描き、死ぬまでにあれもこれもしたい、一生懸命にやりくりし私の人生を充実させたい。これまでもそうして忙しく過ぎ去った人生を今日、満足に終えることができないなら、どれだけ同じ生き方を続けても一生空しいままでないか。医療や科学、文明、財産も趣味も、卑下と傲慢を流転する身は救い得ない。やり直しのできない右肩下がりの人生に「しょうがない」、「頑張るしかない」、「あの人よりマシだ」と侘しく納得させてきた心の根底にある、我ひと業縁の深さをして尊しといのちが呼応する境界である。努力して不完全な人格者になるのでなく、今、自分の人間関係はどうか、利己の私は人生をどういただくのか、脚元ひとつが問われ確かめられていく歩みが他力真宗の仏道であろう。共に生き教えに我が身を聞く道場としての役割を見失えば、歴史や構造、彫刻等が立派でも御堂は目の肥でしかない。中央に安置される阿弥陀如来の仏像も、その真意が伝わらねば単なる木の人形である。読経に始まり聞こえてきた念仏の響きがここに在る。

[文章 若院]


欄外の言葉

 人は幸せでなく幸せの材料集めをしている   三島清圓
 
 全部自分の思いの中の良し悪しを生きてきた   佐野明弘


≪若院の伝道掲示板≫
≪第20組聞法会≫ 

 6月9日(日)午前10時 於 萬福寺(上重原)
 法話:三島清圓師 (高山市、西念寺住職)

 両手足を失いつつ人間の尊厳を見出した念仏者・中村久子の手次寺に、3男として生まれる。大学卒業後はハワイの開教使として渡米、ロサンゼルスでは弓道を通し布教活動に従事する。非常に鋭い観察眼で世間と人間とを見つめ、東本願寺・同朋会館教導として、念仏の教えを真摯にわかりやすく伝えておられる先生です。例年の第20組の聞法会の最終回、ご一緒に聴聞ください。また近著『門徒ことば』(法蔵館出版)はベストセラーとなっている、是非ご一読を。


≪日曜おあさじ≫

 6月16日(日)午前7時
 法話:ピーター・ライト師 

 称念寺の日曜おあさじ講師としては二度目の依頼です。英国に生まれ、5歳の時に脳卒中となり障害を残す。生きる道を求めヒッピーとなりインドへ渡るが、7年に及ぶチベット仏教の自力修行に幻滅し母国で高校教師になる。その後に日本へ流れ着き『歎異抄』に出会い、オックスフォード大で学んだ故坂東性純師のもと真宗大谷派で得度した外人僧侶。前回一緒に来寺された、人生の支えであった最愛の妻・美恵子さんを亡くし、今改めてお話を聞かせていただきます。当日の法話は若院が通訳します。


≪住職リハビリ日記≫

4月26日(金)
 早朝より友人が運転、車で「初の遠出」北陸路を駆けぬけた。西田幾多郎記念館に向かう。『禅の研究』で知られる宗教哲学者。甚遠な分野の領域であるが、自己の存在と、人間探求への問いかけは、施設の建物、庭園などに表現されている。壁が大きな円でぶち抜かれている。何を感じますか?といった設計者からも問われているように思わされました。(所在地:かほく市内日角井1)
 鈴木大拙記念館が次なる目的地。ここも「寂静」がテーマのような印象深い構図、角ばった大きな池の中心に展示館が建っている。「出会い」「学ぶ」「考える」を示唆させてくれる機会の場であった。館長・木村宣彰さんに面談も許され、15年ぶり、元大谷大学学長。私が谷大の1回生の折は寮生活、1学年上の木村さんが寮生の指導を担っておられた。寝食を共にする中での思い出多き存在の先輩なのだ。(所在地:金沢市本多町3丁目4)

4月28日(日)
 姉の慶子(よしこ、昭和16年生まれ)。危篤の報が入り、病院に馳せたが時既に間に合わなかった。翌日の通夜、翌々日の葬儀にも赴いた。お通夜と還骨法要は、お同行がお勤めくださった。農家の多い土地柄か、多勢の近隣の方がお勤め=正信偈・和讃・回向に声をあげておられた。その方たちの手伝いもあっての自宅葬。セレモニーホールでの葬儀式と違って、厳かな中に地域の共同体のぬくもりを感じた。心安らぐ中の葬送にも涙した。

5月8日(水)
園の行事:花まつり

5月19日(金)
 姉の二七日の法要に、ひとり名鉄電車に乗って出かけてみた。

 ストーマ(人工肛門)を付けての日常です。毎朝の「おあさじ」に参列することが日課です。いざ外出となると失態も想定し、交換ストーマを携え気を張っての外出。少しずつ行動範囲を拡げています。

[文章 住職]





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発行所
真宗大谷派 称念寺
発行人 住職 伊勢徳