寺報 清風











 最近、私は、ヒトという生物がこんな生物になった根本原因は何か、ヒトをヒトたらしめている能力は何か、という疑問を解明しようとしている。その答えは、ヒトの共同作業の能力にあるようだ。

 ヒトは、どんなに優秀であっても、どんなに力が強くて健康でも、全く一人で生きていくことはできない。それは、人間には友達や社会的つながりが必要だという意味だけでなく、実際、自分一人の食料を得るだけでも、たった一人ではできないのだ。無人島に一人で丸裸に放り出されたら、あまり長くは生きながらえないだろう。しかし、そこに一人で放り出された人間が成人だとすると、その人がおとなに育つまでの間に、すでに周囲からいろいろなことを教えてもらっておとなになっている。だから、しばらくの間、そういして授けてもらった知識をもとに生きながらえるかもしれないが、その時点ですでに、その人の知識や技術は、それ以前に共同社会の中で育っていたからこそ、初めて教えてもらうことのできたものなのであり、単独で生きられるということではないのである。

 ヒトには、他者の心や意図を理解する能力がある。他者が何を考えているか、何を感じているか、を推測する能力がある。しかし、それだけならば、ヒトにもっとも近縁なチンパンジーにもこの能力はある。ヒトがチンパンジーと異なるのは、「私」が「外界」に関して何を知り、何を感じ、何を欲しているかを、「あなた」が理解している理解している、ということを「私」が理解しているということを、「あなた」も理解している、このことを互いに了解しているということなのだ。だから、「私」と「あなた」は、外界についての考えを共有し、それに向かって、「せいのっ!」と一緒に共同作業をすることができる。チンパンジーは他者の心を推測はするが、それはすべて個人的な作業であり、「思い」を共有してうなずきあうことはない。彼らは、究極の個人主義者の集まりである。

 こうしてヒトは、思いを他者と共有し、互いの心の状態を理解し合うようになることで、文化を築いた。文化とは、外界に対する概念をみんなで共有することにほかならない。文化はみんなに伝えられ、次世代に伝えられ、更新され、増強され、蓄積されていく。それが、ヒトが他のすべての生物と異なるようになった理由である。そして、ヒトの生活は非常に複雑な共同作業の集合となり、もはや一人で生きていくことは不可能なのである。

 もちろん、ヒトは、他の生物には見られない高度なレベルの因果関係の理解や、推論の連鎖を展開することができる。しかし、もしもヒトが単独で考えているだけだったなら、ここまで学問も技術も発展しなかっただろう。単独で考えている状態は、コンピュータが一台だけで作動しているようなものだ。それを進歩させるには、長い時間をかけた試行錯誤が必要だ。しかし、もしもそのようなコンピュータ同士がつながって、内容を互いに交換することができるようになればどうか?これはすごい力であり、内容はどんどん進歩していく。

 ヒトが、外界についての「思い」を他者と共有しようとすることは、ごく小さな子どものときから現れる。子どもは、自分の見たもの、外の世界で目を引くものを指差し、おとなの顔を見て、おとなもそれをみているかどうかを確かめる。そして、おとながそれに気づき、一緒にそれを見ながらうなずきあうととても喜ぶ。もちろん、おとなもそれを喜ぶ。イヌを見て、赤ん坊が「ワンワン!」と言いながらイヌを指差す。母親の顔を見る。母親もイヌを見て、「そうね、ワンワンね。かわいいわね」と言ってうなずく。そこには、たいして意味のある情報交換があるわけではない。ただ、イヌに対する思いを共有したいという欲求が基盤にあるからこそ、ヒトは、互いの意図、目的、理念を共有し、それに向かって共同作業ができるのである。

 他者の心を理解し、互いにそれを了解し合う能力をもったヒトは、さまざまな発明発見をしてみんなで共有し、蓄積し、それを次世代に伝えてきた。文化情報は年々増加し、科学技術は指数関数的に進歩した。さて、そこで今、現代社会では何が起こっているだろう?

 一見するところ、便利なもので世の中は満ちあふれ、夜も電気が煌々とつき、携帯電話やパソコン、インターネットなどの情報技術が格段に進歩した。世の中は複雑になり、生きていくことは、いくつもの「仕事」に分断されるようになった。本当は、生きていくとは、食料を確保して、料理して、食べて、身の回りを清潔にして、病気になったら治して、子供を生み育てて教育し、争いを解決して、ときに楽しく遊んで、死者が出たら弔って埋める、といったさまざまな事柄を、周囲の人々を一緒にやっていくことなのだ。それらの仕事は、本来はすべてがつながった不可分のものだった。

 しかし、今では社会の規模が大きくなり、仕事はすべて細分化されている。一人のヒトは職業として何か一つを選択し、あとは、その職業で得たお金を使って物もサービスも買う。人工的な環境で暮らし、生まれることも死ぬことも、食べものをとることも、その専門家にまかされる。自然界が全体に共生関係を保っているからこそ、私たちもヒトも生きていられるのだという事実は、ほとんど見えない。その結果、現代では、「生きる」ということの楽しさも喜びも、葛藤も悲しさも、かつての社会とは様変わりしてしまった。

 この現代環境は、「お金さえあれば、自分は一人で生きていくことができる」という幻想を、人々に与えているように思う。私たちは、決して一人では生きていけない。人間は、誰もがみんなの「おかげさま」で生きている。そして、ヒトを含むすべての生物が、緊密な生物間の相互作用の中で生かされている。そのことの尊さを教えるのが宗教の使命ではないかと、私は思うのである。


[文章 長谷川真理子 総合研究大学院大学先導化学研究科教授]
親鸞仏教センターによる2010年6月発行『アンジャリ』第19号より抜粋


 ≪永代経のご志納≫

  寺田浩司さん 本町
  佐藤好江さん 西広見


 木も草も 静かにて梅雨 はじまりぬ  日野草城


 ≪スポット≫

@ 吉崎御坊

 蓮如上人御影道中は、京都の本山・真宗本廟と福井県の吉崎別院を往復して蓮如上人の御影をお運びする歴史ある毎年の恒例行事。過去に拙寺のご門徒さん数名が、御影道中に参加された。その頃にはさほど関心を持っていなかったので、誘いを受けたもののすげなく断った。

 上人が歩いたとされる約240キロの道のりを会所(道中の寺院やご門徒のお宅)に立ち寄り、仏法を聴聞しながら上人の御影とともに歩く。337回目となる今年も4月17日に御下向式が行われ御影道中一行が真宗本廟を出発。道中では「蓮如上人さまのお通ーりー」の掛け声とともにお通りする御影に、合掌する人々の姿も。吉崎別院で「蓮如上人御忌(新暦の命日)法要」が勤まった後、5月2日に再び本山へ向け御洛がスタート。5月9日には無事本山に到着し、御帰山式が行われた。

 近頃、この道中に出かけてみたいと思い始めた。今年は御縁がなかった。だが“行ってみたい”ところの一つである。所詮私の脚力では行程の1日、頑張っても2日程しか歩行しえないであろうが…その地でご法話が拝聴したいのだ。

A 応仁寺

 「立ち上がる、何度でも…」の言葉そのままに、西端の強い信仰心を表す応仁寺。幾度の危機を乗り越え、西端(碧南)の人々が頑なに無住・無檀を守ってきた。それは「いつ蓮如上人が戻られてもいいように」という西端の人々の思いによるもの。

 油ヶ淵遊園と道を挟んだ向かいに「蓮如上人御在庵勝地」(大正14年建立)の碑。「ポタ」と呼ばれた広場、大地へと上がる石段を行けば、そこは「松応山・応仁寺」である。蓮如上人を西端に迎えた応仁2年(1468年)を創建とし、その年号を寺名とした。現在の本堂は昭和32年に再建。応仁寺は嘉永7年(1854年)、昭和20年(1945年)の地震による本堂倒壊、他寺院による支配、明治期の学校建設という幾度の存続危機に見舞われたが、ことあるたびに西端の人々は力を合わせて解決してきた。ひとえに「蓮如上人のみ教え」を信ずる故にである。

 近郊でありながら、是非とも機会を設けて訪れてみたい御旧跡です。仏像ブームの展示会が多くもたれている昨今だ。評点は蓮如上人寿像。蓮如上人は応仁2年5月、京洛の兵乱と、比叡山衆徒の迫害をさけて西端に下向され、宗門再興の第一歩を踏み出す地点として一宇を建立した。延徳3年(1491年)に釈恵薫に上人の寿像を賜った。明応8年(1499年)3月25日、上人が還浄されてより約480年の後、西端地区民の悲願である寿像が市の有形文化財に指定されました。

B 如光堂

 上人を三河に案内した「佐々木如光」は油ヶ淵で生まれたという。この三河の地に真宗の教えが広まったのは、如光の活躍といわれている。三河地震により、堂は倒壊したがその後再建された。応仁寺の東にある通称・蓮如池(油ヶ淵)との中間に佇んでいる。







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2010年6月号

いのちと共生 生物が存在している理由
発行所
真宗大谷派 称念寺
発行人 住職 伊勢徳