寺報 清風












 先日、金環日食を見ることができるということで、各メディアが取り上げ日本中で人々の関心を集めた。私もドンキホーテで安価な「日食グラス」を買い求め、娘達とテレビを観ながら空も見上げた。残念ながら、曇り空で金環そのものは見ることができなかったが、欠けた太陽の姿から、地球に暮らす自分と宇宙とのつながりが実感できた。普段は特に天体に興味もない私が、気分を高揚させ期待した理由は、今回の日食が何十年か百数十年ぶりのことで、一生に一度しか見られないかもしれない、ということであった。

 しかし、考えてみると、私達の日常もその毎日は、過去にも未来にも決して同じことのない、かけがえのないものである。数えきれない程の様々なご縁で成り立つ、私達の存在そのもの、人との出会いや関わり、また様々な出来事も同様である。しかし実際には、さも当然のように特別に意識もせず、その一瞬に懸ける感動は失われている。茶道の世界でも、ただ茶を点て飲むという行為に見出した「一期一会」という一時を生きることの緊張感が伝えられてきた。しかし、煩悩が原因でその輝きは曇ってしまう。確かに空の上に輝く金環はあったのだが、雲があっては見えないのだ。

 お勤めの最後に拝読される、蓮如上人の書かれたお手紙「御文」のうち、最も多く読まれるのが五帖目第一通であり、「末代無智の在家止住の男女たらんともがらは」と始まる。お釈迦さまの教えが実践されなくなった時代に、無智のまま日常生活に暮らす人は、男女の区別なく・・・」との問いかけである。仏教でいう無智とは、学識(知恵)が無いという意味でなく、仏の教え(智慧)が無いという意味である。常に自分は「知っている、わかっている」と自己中心的であるこの私が、真実を知らず、迷いのうちにあると上人は教えてくださっている。正信偈でも「南無不可思議光」「超日月光」などと仏法が光に喩えられるのは、「巳能雖破無明闇」すでによく無明の闇(無智の暗さ)を破る光だからである。

 そもそも、誰しも幸せになりたいと願いながら、毎日を生きている。「これさえあれば」という条件は、家内安全、商売繁盛、無病息災、また金や車が欲しい、人と出会いたい、奇麗になりたい等それぞれ違うが、それら煩悩は尽きない。煩悩が満たされないことが、不幸であり苦しいと感じるのだ。なるほどよく言われるように、人間は煩悩があるからこそ生きていける、楽しみがあるとも言える。一生懸命に努力して夢を追う人や、好きなことに没頭する人は、誰しも輝かしく見えるものだ。そして、願いが叶えば、嬉しくて天にも昇るような気持ちになる(有頂天)。それまでと同じ日常の世界が、明るくなったと感じたことのある方も多いであろう。

 しかし、「自ら天界より去る者あり」とも教えられている。私達には、慣れる、飽きる、忘れるということがある。非常に嬉しかったこともその気持ちは褪せ、得たものを失う不安が起こり、「もっともっと」と新たな煩悩が生まれ、不満足からまた違う天を目指す。その繰り返しを、お釈迦さまは「迷いの人生」と喝破された。だから、人生や仕事に挫折し、治ることのない病気になったり、愛する人と別れたりと、思い通りにいかなくなると嫌になり、また「何故こんなにくるしまなければならないのか」と生きる意味を見いだせなくなる。さらに身近な人や自然をも自らの思い通りになることを、毎日のように願っている私がある。そこに私達が、仏の教えを聞かなければならないことの証しがある。

 家族や健康、ありきたりの日常も、人は失って初めて有り難いことに気づかされる。教えを聞いて「ああ、そうだった」と頷くことはあっても、天を目指す思い(煩悩)がなくなるわけではなく、やはり迷ったままの道を歩む私でいる。けれども、そもそも思い通りにならない人生を、身勝手に満足のみを得ようと苦しんでいた自分の姿を言い当てられることで、同じ歩みにも問いが生まれる。仏教における学問とは、知識(問いに対する答え)を記憶するのでなく、問いをいただき問いに学ぶことにある。その問いと共に、いのちのご縁の尊さと業の深さを教えられ、各々の苦悩を引き受けていける力として、一人ひとりが自分らしく共に生きあえる仏道が開けてくるのではないだろうか。

 称念寺のおあさじでは、父・住職がその責務として、年365日欠かさず毎朝7時に正信偈・念仏・和讃・回向をお勤めし御文を拝読し、勤行後に「仏供」(俗に「おぶくさん」「お仏飯」)をお供えするのが日課である。年間を通して2度のみ、全国より講師をお呼びして法話をしていただく、恒例の「日曜おあさじ特別法話」が催される。門徒の皆さんと共に教えを聴聞して我が身を振り返り、お念仏の歩みとしていく機縁としたい。


[文章 若院]


≪日曜おあさじ特別法話≫ 

 初回は、6月17日、大聖寺教区より山本龍昇先生(上宮寺)、講題は「共に相会まり遇わん」です。第2回目は24日、名古屋教区より荒山淳先生(教化センター主幹)、講題は「選択本願は浄土真宗なり」です。ご聴講いただくご縁を念じます。

 日曜おあさじでは、毎月の第1日曜には正信偈を現代文に訳したものをテキストとし、第2には五木寛之著の『下山の思想』を読み、第3日曜には同朋選書「観経に学ぶ」を使用し、第4週には高倉会館での講演「ともしび」を読むプログラムになっています。


≪本堂新築事業の進捗状況≫

 3月の建設委員会での協議の結果、社寺建築会社による設計施工の一括受注とするのでなく、設計・監理を担当する設計士を個別に依頼することが決定しました。今年5月には、建設委員会にて設計士2名を最終選定しました。

 @ 古橋武生:アスカ設計事務所(名古屋市中区)
 A 田中義美:田中設計事務所(岐阜市)

 上記2名が本堂と玄関の設計と監理を請け負いました。現在は新本堂及び玄関の間の平面図に続いて構造伏図などを精査しています。当初の計画通り「丈夫で長持ち」の木造本堂としバリアフリー、冷暖房設備、全席椅子席など、この先数百年にわたってお檀家の皆さんに気持ちよく参詣いただけるよう計画いただいています。約5ヶ月間の設計期間を経た11、12月に、施工(宮大工)業者の選定をする予定です。

 また「納骨堂」に関しても、年初より建設委員による3ヶ所の視察を経て、第二期事業計画として様々な可能性を模索しています。


≪新・本堂の意匠≫

 通常、天井は「格天井」が格調高く最も好まれている形状であります。現・本堂においてもその仕様が取り入れられています。変わったところでは、大面積の雲龍図が描かれたり、床と天井に堅い木樹を使用して音を響かせるフラッターエコー効果を取り入れた「泣き龍」などの天井が全国各所で見受けられます。

 新本堂の天井板は、寺紋・銀杏・鳳凰などを彫って朱・黒漆で仕上げたものを4種類、花鳥風月をあしらった丸型彫刻が用意できました。内陣、・外陣に約500枚が準備されています。天井としては、極めて珍しい意匠@となりました。他にも支綸・持ち送り・蛙股などの部材はすでに特徴のある意匠Aで彫刻され、保管している倉庫で出番を待っています。

 柱は、けやき(国産)・チーク100本(ミャンマー材)の2種を使用するとて購入し、準備してきた木材はすべて原木丸太の形状のものでした。4月、設計士さんに平面図をいち早く描くよう依頼し、5月それらの原木用材を製材場(一宮市)に搬入し、平面図をもとに8角形状に伐って加工しました。さらに太さ、長さなどで設置個所を定めていきました。木肌が表れて特に美しい木目が診てとられる材から場所の指定をしました。

 ケヤキ材が52本、そのうち最大、最良のものが虹梁の材として採られました。外陣の中央に納まり、これぞ大虹梁と見せてくれる材です。その他にも外陣の主要な丸柱、他の梁材として約半数のケヤキ材が加工され、木目・色合いを魅せてくれました。虹梁の彫刻、内陣の柱面についても、従来型の宮大工におまかせしての施工でなく、牡丹柄、七宝組子柄などといった伝統図柄の彫刻柱を取り入れた意匠Bを思考しています。


≪年会費納付の変更≫

 5月11日、午後6時半から世話方会議を開催。今後2年間、地区に分けた門徒名簿に沿って、寺報「清風」を配布いただくようご協力をお願いしました。従来より世話方さんが配置されていた区域では、世話方によって年会費を年2回に分けて徴収してきました。

 しかし諸事情により本年からは11月頃に、年会費の振込用紙を郵送でお届けします。その後、郵便局から振り込んでいただく方式に変更させていただきます。

 なお墓地「一向浄苑」の年間冥加金については、例年通り6月にご通知申し上げます。何卒宜しくお願い申し上げます。







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2012年6月号

教えを聞くべき身
発行所
真宗大谷派 称念寺
発行人 住職 伊勢徳