寺報 清風











 命あるものは、必ずその命を終えていく。あなたも私も、周りの大切な人達も、世界中の人々が必ず死すべき身を生きている。しかも何時、誰が先に、何処でどのように命を終えるのか、その時になってみないとわからない。これは決して仕方のないことなのではなく、悲しいことではあるが自然なことだ。命は授かったものであり私の所有物でもない、生かされて在るいのちである。病気や事故、そして老いや死は私達の望むことではない。だが避けることができないので、私達は元気なうちは楽しく暮らそうと努力する。老病死の事実から目をそらし、自分の人生を充実させようと苦悩しているとも言える。これまで発展してきた科学、医療、経済は、私達のあらゆる欲求を満足させようと後押ししてきた。しかしお釈迦さまは、その苦しみの原因である欲望を見つめなさいと、人生の良いことも悪いことも無駄なく引き受ける生き方を教えてくださった。

 日頃から私達が求める利益(リヤク)は、神社をはじめとする社寺仏閣での祈願項目によく現れている。家内安全、無病息災、商売繁盛に加え、豊作、長寿、合格、良縁、安産等あらゆる願い事がされてきた。もちろん祈祷やお守りで成就はしないし、関心は自分だけの勝手な願いだが受理はされる。テレビでも常に楽しい娯楽やより美味しいグルメを演出し、いかに快適で便利か、健康や若さを保てるかを宣伝し、豊かさが幸せであるかのように伝えている。実際、昔の人から比べれば携帯電話も普及しコンビニも多く天国のような暮らしぶりとなったが、何故か心底満足している実感は得られない。相変わらず、夏になれば暑い、冬には寒い、忙しいだのつまらないだの、人間関係から病気まで愚痴や不満が絶えない。世の中がどう変化しても人は生きる限り様々な問題を抱える。何故そうなのかという自己の姿を知らずに生きることを釈尊は虚しいと伝え、仏教では「空過(クウカ)」(空しく過ぎる)と呼んできた。

 空過の生活には、本当の意味で私は生きたと言えるような根幹が欠けている。病気が治っても百年生きてもここに生きたと言えるようなものに出遇えない。私がそうだが、健康が保てないか、宝くじが当たらないかと、思い通りにならないことを思い通りにできたら幸せになれると迷ったままだ。自分を良く言われれば優越感を持ち、たとえ悪く思われても自分は人とは違うのだと反省すらできないでいることは、嫁さんが一番良く知っている。どう生きても貪り、怒り、慢心、妬み、あらゆる煩悩を始末できない。心の底では虚しさ、不安や孤独を抱えたまま、都合よく満足して生きていきたい、そう自分中心に願い生活することに私達は何ら疑問を持ち得ない。こうした迷いの正体、本当のことを知らないことが「無明(ムミョウ)」だと言われる。その闇を破るには、他力の教えに自己を学び生活することが大切だと教えられてきた。仏に照らされて、鏡で自分の姿を見るように自身の生き方はこうだったと振り返り、悔いなく生きて欲しいと願われる私に還らさせていただくことである。

 必ず死すべき身を生きるとはどういうことだろうか。最近、妻に生命保険に入ってくれと言われているが、それも彼女なりの子供達への責任を感じての言葉だろうと思う。実際には明日死ぬかもしれないが、例えば私の余命があと3日だとわかったとする。すると今夜は酒でも飲んでゆっくりしよう、明日は仕事の合間に映画を観よう、来年は旅をしたいなどといった楽しみが意味を為さなくなる。きっと今の私にとって本当に大切なことではないからだ。では何が大切なのか。少し静かに落ち着いて死んでいかなければならない事実を受け止めたい。人生を振り返ってご縁の有り難さと命の悲しみも見つめたいとも思う。またテレビを消して家族や友人と向き合い最期に話をしたい。そしてそこにはきっと深い願いが生まれるだろう。

 皆さんと一緒にお勤めさせていただく葬儀や法事では、故人が好きだったビールやタバコ、菓子等お供えする方も多い。真宗の仏事は、お参りして故人の菩提を弔うのでなく、先に命終えた諸仏からの願いを私達が聴聞する場である。何を聞くかは人それぞれだ。あなたが先に死んでいかなければならないとすると、大切な人に最期に何を託したいだろうか。私であれば、私の好きだった物を買ってきて単に拝んでもらうのでなく、見えない聴こえないかもしれないけれど願いに気付いてほしい。生きることには必ず老病死の苦しみがあり、また思い通りにならない歩みがある。死後に見守り支えることはできないが、どんなに苦しくても自分らしく懸命に生きていって欲しい。きっと失敗することも悲しいこともある。けれど共に生きる喜びを感じ、縁あって生まれてきたことの尊さと痛みを知り、かけがえのない命と日々を大切に過ごして欲しい。

 私達にとって依って立つべき処とは何か、その根源的な問いを聞くために儀式があり寺がある。私は自分自身の願う生き方すら恥ずかしいほどに身につかず、だからこそ私も念仏すべき身を生きる一人であることを知らされる。更に深い諸仏の願いと悲しみは、先にお念仏の教えに触れた先輩方の法話に聞いていくしかない。生まれてきて良かったと自然と手が合わさるような、私達が常に生きている今を尋ねる歩みが、南無阿弥陀仏という言葉になって伝えられてきている。

[文章 若院]


«日曜おあさじ 講師紹介≫

 今年度の日曜おあさじのご法話には、本山・東本願寺の研修部より木名瀬勝氏が来られます。京都の本山の境内には、全国から泊りがけで教えを聞き、清掃など奉仕をしに上山する門徒のための施設・同朋会館があります。そこでは法話をする教導、世話をする補導が担当として各団体と共に生活しています。私も嘱託の補導となりこの4年間お育てにあずかってきていますが、100名を超える全国の若手僧侶の補導を一手にまとめておられるのが木名瀬補導主任です。

 木名瀬さんは在家の生まれで縁あって寺の世界に入ることとなり、現在では同朋会館の大黒柱として活躍されています。優しさが滲み出る人柄ながら、いつも目を見て大切なことを教えてくれる尊敬する上司でもあります。共に法話を聴聞したいと思い、お忙しいなか是非にとお願いさせていただきました。

6月28日(日) 午前7時 講題「呼びかけと目覚め」


«新本堂 建設委員会より≫

 本堂工事を請け負った丸平建設の倒産劇の1月から約5ヶ月を経過したが、今時点においても債務物件(一部の用材の引取、約10%の補充材)で継続協議が続いています。丸平に運営資金を貸付した側の岐阜県所在の「O銀行」の譲渡価格と、用材を入手したい拙寺の購入希望額が隔たりがあってのことです。寺側の弁護人の説明では、O銀行との決着には、当方が時間的余裕を持つことが肝要であると指摘いただいています。

 そうした状況下ですが、次なる工事再開の請け負いたい旨の業者がありました。主は寺院の屋根工事を担う建築会社ですが、「K社(名古屋支社)」から申し出がありました。が、約1.5ヶ月後の結果は、高額な請負額を提示されたので破談しました。

 次の候補は、近隣のある寺院から推薦いただきました社寺関係業者の「O社(岐阜県)」です。その会社の宮大工諸氏に状況を把握してもらい、O社が現在請負額を積算中です。こうした経過は、毎月開催される建設委員会のなかで設計士さんから詳細な報告を受け協議継続しています。

 ご心配をおかけしますご門徒さん各位、現時点中断している本堂工事の再開には今しばらくの猶予、ご寛恕いただきますようご理解をお願いいたします。


 冷や麦の 箸を滑りて とどまらず (篠原 温亭)

 散れば咲き 散れば咲きして 百日紅(サルスベリ)  (千代女)

«新本堂 仏具の誂(アツラエ)「灯芯押え」≫

 中尊・2尊前に用います。中尊前の対の輪灯は、瓔珞の下に掛けられます。油皿に灯芯を入れますが、灯芯が動かないように重しを置きます。その灯芯押えの形状を「鶴柄」とした。小さすぎる部品であるので真鍮製の「鶴の芯押え」はあまりみかけることがない特注の仏具ですが、出来上がって届けられました。


 そうきんは ほかのよごれを いっしょうけんめい拭いて
  自分はよごれにまみれている (詩「ぞうきん」 榎本栄一)

 大阪の下町で化粧品店を営んでいた念仏詩人(仏教伝道文化賞を受賞)の詩集「群生海」より。身を汚れにまみれて周りを拭うことで、そのはたらき、いのちを全うするのでしょう。およそ人も物も皆、それぞれの働き、いのちを尽くして周りの力になり、自身をも満たすべく、うまれてきているといえるのでないでしょうか。
 




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2015年6月号

命終と今
発行所
真宗大谷派 称念寺
発行人 住職 伊勢徳