寺報 清風






         人に生まれた機


 約2年前に逝去した芸能人の大橋巨泉さんは、成功者として人生を謳歌した人である。一流の司会者であり、競馬やゴルフ、ジャズには評論家と肩を並べるほど精通し、ビジネスの分野でも複数店舗を海外にまで出店、その後は参議院議員として政界にも進出した。だが70歳を過ぎてガンになった。病床で「病気が治らないなら生きていても意味がない。安楽死させて欲しい」と弟に懇願するが、法律上認められず絶望のまま命を終えられた。また同じ頃、相模原の障害者施設で19人を殺した犯人は「重度の障害者は安楽死すべきだ」との信念を抱いた。不治の病でプラスとならない人生には、生きる価値も意味もないのだと、皆が羨む成功者と戦後最悪の殺人犯とで、自殺他殺の違いはあれ同様の結論に至っている。

 『正信偈』に「邪見驕慢悪衆生」と、人間のあり方を端的に言い当てた表現がある。親鸞の人間観すなわち釈迦が抱いた、仏の眼で大悲した人の姿である。自我を中心とする誤った見解で人は迷い傲慢になり、本来平等で尊いいのちを見失う、煩悩悪にまみれた存在とでも言おうか、そこには言葉では十分に表現し尽せない深さがある。私達はカラスやダンゴムシ、鯛でも桜でもなく、奇跡的な縁あって人間に生まれた。そして悪を内包する全ての人が、自分が生まれてきたことの意味を、この娑婆で問い続けずにはおれない歴史の只中に在ることを示唆しているからだ。

 生命の価値を量り自他を殺すことは特別なことではない。ナチスや旧日本軍だけでなく、現在の日本の法律も同じ人間の思いが支える。最近のニュースで強制的に断種の手術をさせられた旧優生保護法が取り沙汰されたが、数年前からもダウン症や重度の障害を早期発見するための妊婦の羊水検査が始まり、9割超の確率で障害を持つ胎児が合法的に殺されている。この法律に反対する人が正しいというのでなく、人は皆すべからくそこに立っている。多くの人が「寝たきりになったらお終いや」と考える。あるいは金言のように語られる「健康が一番大切だ」ということも、同様にいのちを奪う言葉だ。つまりは、思い通りにならなければ生きる価値がないという思いだ。人の我は根深い。だが自分の思い通りには決してならないのが人生である。では生まれてこなかった方が良かったのか。この矛盾一つ、私達が生きることも死ぬことも引き受けられない証であろう。

 人間として生まれたことは、必ず老病死するいのちをいただいたということだ。これまで都合の良いことを是として生きてきた。だが産まれつき健康でないこともあれば、誰しも必ず失われるのが健康であるから、健康は拠り処とならない。また自分だけ健康で長生きしても、はじめに連れ合いを亡くし、跡取り息子や孫まで先に亡くし、健康であるが故の悲しさがある。実際に、長生きしても愚痴ばかり増えていないだろうか。また、100歳まで生きても「まだ死にたくない」と苦悩して死ぬ人もあるから、人生の満足は長さでもない。金持ちも自殺するし、時間も愛もカネでは買えない。財産も人を惑わし、権力や名声も孤独をもたらす。家族こそが大切だという言葉も縁による。身近な存在が苦悩の種だとしか感じられないことは日常茶飯事だ。命が大事だとも教わるが、アフリカの子供達が餓死しようと、知らない国の戦争で何人死のうと、大して気にも留めない。癌になればスマホなどの文明の利器は何の助けにもならない。かつて聖徳太子は「世間虚仮」と表明したが、現代でも娑婆に生きる人間の善悪ほど当てにならないものはない。

 だが心の奥底にある課題に向き合うとき、人は様々に答えを求める。「今を楽しむ」、「人に迷惑をかけない」などできるはずもなく、美味い物を食べて趣味に勤しみ臨終は「ピンピンころり」が一番だ、と。じゃあ明日ころりと死ねるかというと、それでは困ると言う。皆が大事だと思う感謝も、災害や事件で他人の不幸を見知り「私は良かった」と、身勝手でしかなく共に喜ぶ世界を見失っている。自身の歩みを振り返ったり、他人と比べては、なんとか自分の人生の価値を見出そうとするも、何気ない日常が過ぎる虚しさは残るはずだ。私が生きることを実感するのは、旅先での一杯のお茶や織り成された世界の混沌、出会い必ず訪れる別れの不思議だが、これも長続きはしない。どの言葉もどの答えも間に合わず、何時どんな状況でも通じ合える、生きる力へと必ず導く真実とはならない。こうした人知の輪廻全てが2000年の仏教徒先達の歴史で繰り返し問われ培われ、「自力は無効だ」と伝えているのが『正信偈』の内容である。

 かつて二人の王が対照的に生きた。秦の始皇帝は中華世界の全てを手中にした後、意に反する思想と人を焚書坑儒で排除し、老死の事実に慄き自身には究極の願いを抱く。「不老不死」である。必死にその霊薬を求め、終に得られないまま命を終えた。一方、釈迦族の王子ゴータマは、人の老病死を見て世の非常を悟った。王位を捨て出家し35歳で目覚め、その後は有縁の仲間に仏の世界を説き続けた。それは一切皆苦の人生の只中に「この全宇宙にあなた以外にあなたはいない」、「人生の喜びも苦悩も全てが尊く、老い、病気となり、ひとり死んでいかなければならない、代わる者の無いあなたのいのちが今そこに輝いている」と、はたらきかける南無阿弥陀仏の真実の願いであった。人は死ぬ前に何をなすべきか、念仏である。無自覚な自我をもって人は大地に立てない。だから「自分とは何か」、そのことが明らかにならなければ本当に生きたことにならないのだ、と。先達に尋ね、念仏し、サンガ(仲間)と共に歩む。そこに、どうにもならない人生に響く教えがある。

[文章 若院]


欄外の言葉

 自分の喜びの世界が常にそうでない者を排除する 佐野明弘
 
 自分には時間がないと考えると今を生きられない 高柳正裕



≪日曜おあさじ 講師紹介≫

 毎朝勤められるおあさじに、毎年6月の日曜日に二度、全国より講師の先生に法話に来ていただいています。今以外に聴聞すべき時はありません。どなたも是非お越しください。新本堂は参道からバリアフリーのため車椅子の方も参詣いただけます(専用トイレあり)。聴講無料、朝7時より8時45分まで。

● 6月3日(日) 高柳正裕さん 講題『心が通じる世界』

 以前、日曜おあさじに来ていただいた若院の元上司・木名瀬さんに勧められた方で、日常の心や人間関係を通して、仏教の響きを真摯な言葉で教えていただいている。最近通い尋ね始めた、今お話を最も聞きたい先輩の一人です。愛知県で生まれ金沢大学文学部を卒業後、タクシー会社、鉄工所、新聞配達などを経て浄土真宗を学び、東本願寺の教学研究所に勤められた。学仏道場・回光舎を主催。

● 6月10日(日) 飯山等さん 講題『私をどこから始めるか』

 若院の母校である京都大谷高等学校の校長先生をしておられます(在校当時は理科の教員であったが私は私立文系を選択したため授業は聞いていない)。週末には岐阜県のお寺に戻り住職を兼務、日々現代を生きる若者達に向き合いながら、大谷での中学・高校時代が、生徒達のかけがえのない人生の土台となるよう尽力されている。多忙ななか是非にとお願いさせていただきました。


≪お寺の伝道掲示板≫

 本年4月より、若院が住職より引き継ぎました。門前の新地通りは、知立市街を南北に通る通行量の多い幹線道路で、買い物や保育園の送迎の方もあります。寺の門が地域全体に広く開かれるよう、自分なりの簡潔な表現で伝えたいことを言葉にしていきたいと思っています。見るご縁がなかった方にも、寺報で掲載します。

● 「ありのまま」の反対 老いたくない 病みたくない 死にたくない

● その苦悩が あらゆる人の 問いとなる

● 自己中心が 自分も他人も 傷つける

● 人間関係の問題は 思い通りにしたい 我が心


≪本堂の葬儀≫

 昨年の春の落慶法要後に、3件の本堂を会場にした葬儀がありました。そして本年に入ってから、本堂葬をされた2件もありました。ご本尊の前卓には、紙華花を挿した花瓶の三具足を配し、中陰用の打敷を掛けます。真宗の宗規に則った飾り付けで荘厳します。近年市内の各所に乱立するセレモニーホールの「祭壇」とは全く異なります。

 本堂葬では、祭壇費が不要です。よって葬儀の総費用がかなり安価に抑えることが出来ます。掛け金方式の事前相談等の会員特典を破棄して、本堂葬に決められた方もありました。本堂葬は、寺の行事や法要等に関わって、葬式の執行日時などに少しの制約もありますが・・・

[住職]


≪20組聞法会≫

 6月9日(土) 於:萬福寺(上重原) 講師:ピーター・ライト師

 イギリス人の大谷派僧侶。障害を抱えインド放浪を経て日本へ流れ着き、坂東性純に出会い得度。近年、最愛の奥さんを先に亡くされた。法話は、宿業と希望について英語でお話され、若院が通訳いたします。





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発行所
真宗大谷派 称念寺
発行人 住職 伊勢徳