寺報 清風










                                   大谷大学 学長 木村宣彰 述

 本日は「真宗における救い」という講題でお話させていただくこととなりました。あらためて真宗というものはどういうものかを考えて、称念寺に寄せていただいた。今皆さんと唱えた正信偈に「難中之難無過斯」とあるが、一体どういうことなのか。本願を信じて念仏を申せば仏になる、しかしそのことは困難の中の困難。ちょっと困りますね。一体何が難しいのか。

 沢山いらっしゃる仏弟子のなかで、阿難という方がいた。これはお釈迦さんの従兄弟ですね。ですからいつもお釈迦さんの身近でお世話をし、亡くなるまでの晩年25年間、ずっと傍にいた。ずっと一緒ですから、お釈迦さんのお話をみんな聞いていた、よって多聞第一のお弟子さんでした。私達は浄土の三部経をいただいておるが、お経は他にも五千冊以上ある。そのお経は全て「如是我聞」で始まり、阿難さんが「このように私は聞いた」という。しかし彼はお釈迦さんが生きているうちにさとりを開くことができなかった。学校だったら先生の教えを全部聞いてきちっと覚えると、試験は百点満点だが、阿難さんの場合はそうでなかった。これはどういうことなのか。

 また同じお弟子さんに、周利槃陀伽がいる。兄は摩訶槃陀伽、この人は頭が良かった。お釈迦さんの教えを聞き感謝し、是非とも弟にもと思い出家させた。ところが弟は物覚えが悪い。お前は駄目だ、と兄さんに叱られて追い出されてしまった。するとお釈迦さんは「自分は記憶できない、そういうことを気付いている人間こそ最も賢い人間だ。みな自分のことに気付かないで、私は他人以上だと自慢している。君は自分がだめだということがわかっているんだから、君が一番賢い。」と周利槃陀伽を褒めた。それで彼はまた寺に戻った。そこで「塵を払い垢を除かん、こういいながら掃除をしなさい」と言われるが、それすら覚えられない。ところがその周利槃陀伽は、お釈迦さんが生きていらっしゃるうちにさとりを開いたんです。これは一体どういうことか。

 私達がものを良く知っているとか、賢いということは、試験の点数みたいなことだけで、目に見えるものだけで計っている。しかしそういうもので計れないものがある。しかも自分で、人間は何でもできると思っている。その考え方はどうかと思う。冷房も暖房もあるし、食べ物も着る物も自由、大変な人もいらっしゃるが、昔からすれば本当に豊かになった。何でもできると思っている。思い通りに物事ができる。親鸞聖人はその心を“自力”と言われた。ご和讃を読むと、聖人は「自力を捨てろ」とはおっしゃらない。「自力の心をひるがえす」と、自力の心を離れろとこうおっしゃっている。その自力の心が問題だ、ということです。

 私達は自分ひとりで生きている人は誰もいません。私がこのお寺へ来るためには、昨日ホテルに泊まって、自分で歩いてきたように思っているけれど、そうじゃない。あらゆるものが私がここへ来るよう、妨げなかった。地震もなかったし車にもぶつからなかった。私が皆さんとおまいりできたのは、様々なご縁がある、そして因がある。自分以外のものは全て私を今こうしてあらしめておる縁であり、因である。しかしなかなか気がつきませんよね。私だって歩いてきたのは、まだ膝が大丈夫だから歩いてこれたと思っている。これは自力の心なんです。しかし自分は自分で生きているというふうに思う。それではどう生きたらいいのか。

 私達は今日より明日、生活を少し改善したいとか、生活の目標を持つ。給料を上げたいとか車が欲しいとか、生活の目的がある。しかしそれは皆命あってのことで、命がなくなったらしょうがない。すると命よりも大事なもの、生きる目的は何かということが一番大事なことになるでしょう。お釈迦さまは必ずこう仰せになる、「あなたの生きている目的は何ですか?」と。その問いに気付くか、気付かないかによって今生きている人生はコロっと変わってくると思います。先ほどの阿難さんは頭が良いので理屈でものを考える、頭で理解しようとする、しかし周利槃陀伽さんは考えない。もう仰せのとおりに受け止める。

 「信心とは何ですか?」と問われ、ある妙好人の方が信心とは「はい!」ということを言われた。「こうだ」と言われたら「はい!」、私はなかなかそうはいかない。「ところでそれはどういう意味ですか」となってしまう。では「はい」と言える、素直に受け止められる心とは一体どういうことか。澄んだ心、清らかな心が信、これが大事だと天親菩薩は言われる。

 自力のはからい、その心は「私達は何でもできる」と思うこと。あるいは、自分の都合の良いように物事を見ている。晴れた日が続けば、早く雨が降って欲しいと思うけど、雨が降ると腹が立ってくる。傘忘れたら腹が立つわけです。これ、心が澄んでいないのです。自分の我というもので、心が濁っている。濁ったものが綺麗になっていく、それが信です。しかし私達は生活のことどころか、生活を豊かにする手段であるお金のことばかり考えている。先ほどの周利槃陀伽さんはお釈迦さまから仰せのとおりをいただいた。どうしてか、心が澄んでいるからです。

 何か理屈で考えようとか、説明を頭で理解しようとはしなかった。頭で理解することと納得することは違うのです。頭でわかるけどできないってことが一杯ありますから。やっぱり私たちのエゴ、自我ですよ。そういうものを払拭した世界に見えてくるもの、それが信というものです。

 何が見えてくるか、それは形のないものが見えてくるんですよね。一番大切なものは何でしょうか。お釈迦さんが元気なうちは直接教えを聞きに行った。けれど80歳でお亡くなりになられたら仏さんはこの世の中にいなくなったのか。いや、そうではない。あのお釈迦さんは私たちのためにこの世の中に姿を現していただいた、ということに弟子達が気がついた。一番大事なのは、私達にかけられたお釈迦さんの願いです。亡くなった方々の願いでもある。ああ、子供たちは元気で生きているかな、頑張っているか、そういう心が開かれてくること。私が寝ていようが起きてようが、邪なことを考えてようが、常に仏さんが私に願いをかけていただいている。仏さんというのは「目覚めた人」という意味です。この気付くこと。何に気がつくか。親鸞聖人は「慙愧なくば人でなし」と言われた。慙愧ということは恥じる、自分が恥ずかしいということに気付く、それが人間だと、自分の正体に目覚める。

 真宗の教えを聞くと、私達は凡夫であると教えられる。凡夫であるとは、凡人ということでなく、自分の思い通りにならないということです。今日は真っ直ぐに家に帰ろうと思っても、ビールの2割引でもあると、ちょっと飲んでいこうかと、こうなるわけですよ。みな思い通りにならない。なぜなら、縁に会って、そしてその縁によって様々な行いをする、そしてその結果がある。そういう業縁の存在、業と縁に依って生きている。縁にあって業を間違えば生きる世界も違ってくる。自分の思ったとおりに生きられない。自分の思うとおりであれば、最初に思ったとおりに人生を真っ直ぐに行くわけですけれども、様々な縁をいただいて、様々な生き方をしていく。そして様々な心を持っている。その娑婆に姿を現していただいたのがお釈迦さんです。

 そして何を教えられたか、阿弥陀の本願です。姿も形もない仏さんの「根本的な願い」を説いていただいた。ただ私達はそういうことに全く気付かない。生活の目的だけを捕らえている。仏智を疑って生きている。心が澄むというのは、聞法が因であり、信心が果である。また信心が因であり、聞法が果である。互いの関係になっていく。本日おあさじの会のご縁をいただいて、やはり私が忘れておっても、仏さんが私のことを思っている自分であるということに気付きます。そういうことが法を聞く、仏法をいただくということではないでしょうか。


(注)木村学長の法話は、親しみを込めた語り口であった。実際に筆耕した文章とはかなり違ったものとなりました。例えば正信偈ということを「お正信偈さま」と表現されました。私のいう正信偈と先生のおっしゃる言葉とは、丁寧さ、信の深さが違うことからよるものであろうと思わされました。文全体に多く改めた箇所があります。文責は住職にありますことを記しておきます。






<行事・万灯会>

 称念寺墓地「一向浄苑」は市内東栄2に所在します。お盆になると2つの行事を行います。
@昼間の「申し経」は13日の午前8時〜10時にお勤めします。
A13・14日の夜に「万灯会の申し経」を受付します。午後6時から始まりますが、しばらくの間は参拝者でたいそう混雑しますので、日没後の7時過ぎあたりからお出かけ下さい。日の落ちた墓苑にほんのりと灯された供灯の数々の明かりが、叙情を醸し出します。2日間とも夜9時まで。


<境内の句碑>

歎異抄 旅に持ちきて 虫の声 (吉川英治)






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2006年7月号

紙上法話
発行所
真宗大谷派 称念寺
発行人 住職 伊勢徳