寺報 清風











 現代は暴力に満ちている時代といっても過言でないと思うが、一般的に暴力とは?と問われれば、殴り合い、暴力団、戦争などを連想しがちの上、自分には遠い事柄であると思う人も多かろう。

 学生に暴力という言葉のイメージを訊ねたところ、そこの中には驚くべきもの、学ぶべきものが多々提示された。愛情、家庭だと指摘する者までいること。親はおせっかいに過ぎない、子供のためを思ってというけれど子供の側からすれば、思い込みを押し付けていると。自分の気持ちを相手に押し付ける愛情も、受け取る側は辛くて圧力にしかならないと、暴力すなわち親であると。それより多くは、暴力からは学校の教師が連想されてくると多くアンケートにあった。

 親が家庭が、暴力。これは一体何を物語っているのでしょうか。一方的な押し付け、これが暴力の本質です。こう受け止めれば、何も殴り合いばかりが暴力でないと認識できるのではないでしょうか。

 原発を挙げる若者もいました。昨今ニュースになっている中越の柏崎もそうですが。どうして真宗の教えの盛んなところに、原発の7・8割の施設が存在しているかといえば、真宗門徒の人たちはおとなしくて、世間に文句を言わないからであると。そうした人間像をお寺が百年、二百年かけて教えてきた結果からであると思えるのです。こうしたことは、本来の真宗とは違うのではないかと近年、同朋会運動などでようやく取り上げられたり、問題にされ始めましたが・・・。

 電力を多く使用するのは大都会です。ならば、どうして東京湾に作らないのでしょうか。高知県のある村が、放射線廃棄物の処理場の候補地となったが、住民投票の結果、住民の反対にあって断念した。いづれにしろ片田舎の、地方の人々の犠牲の上で成立させようとしています。核廃棄物の恐ろしい毒性は、何千年も危険なまま存続するといわれている現状です。さらに廃棄物を入れる容器がない。どんな容器に入れても、容器が先に腐食してしまうことなどの事実を誤魔化している。青森県の六ヶ所村での不安な問題は、将来においても続く。街角の自販機は、あまりにも無駄な電力を消費しているから暴力であると。都市部の消費生活にどっぷりと浸かっている私たちには、考えさせられる指摘でもあります。

 デパ地下の個人用の惣菜、近頃美味しくなりましたけれども、考えてみますと料理した人の顔が見えない、調理した人との会話がないようなものは何ですかね、単なるエサですね。人間のふれあいを、暮らしを無視したものとしてパック詰め惣菜を暴力と言い当てた感覚の持ち主もいた。カウンセラーの現場からは、5・6歳の幼児の口から「自分は生まれてきてはいけなかったのでは」と聞くことがある。これは本当に辛いですよ。子供らしくない言葉が届けられる、色んな暴力が積もって虐待する現場がいま見えてくる。個人が起こすエゴイズムも問題ですが、少数意見を押さえつけ、立場に反する側をこれ見よがしに増長するあり方のマスコミも俎上に上がってくる。

 自分が正しいと相手を一方的に押し付ける、そういう気持ちが根底にあって相手への押し付けが強大になっていくことを暴力という。

 戦争は個人でなく、国家・政府が起こしますから、憲法には。社会の秩序に関係することですから、みんなが合意して成り立つとしている。秩序がなかったら成立しないのですけれど、みんなが合意して成立した秩序は、歴史上未だあったためしはありません。

 国家の組織を使って起こす暴力を戦争といいます。特定の、一部の人たちが力をもってして、強引に推し進めようとしてきた。アメリカの5%の富を持った人たちは、イラクの石油の利権をも手に入れようと考えた。富を持たない人からすれば、あれほどお金があったらそれ以上何が欲しいのかと思うのですけれど、お金は持てば持つほど欲しくなるようでありますね。それらの人の強い後押しで、ブッシュさんは戦略を開始した。多くは米国南部の貧しい人たちを、リクルートして戦場に派遣した。特定の人たちの利害が優先し支配し、考えが違うアフガン・イラクを排除、差別するということに暴走した。

 宗教と政治は、最も相反するところです。互いに殺させない“不殺生”を大事にする仏教と、法律をもって人を動かし、逆らう人をもねじ伏せて、最後の手段として暴力の肯定=戦争をもしでかす政治は、自ずと反律することを知っていただきたい。

 残念ながら親鸞の教えというものを掲げた本願寺教団さえも、僧侶においても19世紀当初の日露戦争、後の第二次世界大戦まで、全てにおいて戦争加担してきたことである。アジアの人を解放するために、先ず調和のある世の中を作ってから、非暴力の平和を取り戻すなどと詭弁を弄し、戦勝祈念法要で先頭に立って旗を振ったことでした。なかには高木顕明(兵器を持つことなかれ、人を敵と見ることなかれと主張した非戦運動家、暗黒裁判で牢獄に入れられ、獄中にて自殺した僧侶)さんなどのような方がおられましたが、ほんのごく一部の人しかいなかったことであります。

 苦しみの原因を明らかにすることが仏教の出発点です

 なぜアメリカはテロの攻撃を受けたのか。まず原因を明らかにさせなければならない。派生原因を努力して追究しないばかりか、異論に対して非寛容になってしまった。正か否かを単急に結論を求める傾向になった。ここ7・8年、9.11以来、戦争の肯定が変に強くなってきた。秩序に反するものは選別してもいいと、絶対の正義として排除、差別をし、悲しみすら持ち合わせていないということも気がかりです。

 戦後の昭和時代、戦争は罪悪だという共通の認識があったのですが、変化の兆しを危惧します。私の話は社会を憂うということが主題ではなくて、宗教はどこまでも“非暴力”なものであるということ。

 文豪・トルストイは『戦争と平和』とか『アンナカレリーナ』が有名でありますが、そこでのテーマは“宗教と政治”です。暴力を是認する政治を阻むことのできるのは“宗教心”しかないと。利害が対立したとき、暴力を肯定するのが政治であり、戦争を是認するというのです。日露戦争の指導者が「戦争となっても5万の兵隊が死ねばすむことだ」と聞き及び、人を手段として、兵器と見立てて恥じない戦いの方策に愕然としたという。親から育てられ、教えられたこととも違います。殺しあうことはどこまでも拒絶するという自己の信仰から『復活』も執筆されました。

 宗教はどこまでも非暴力です。これに共鳴したのが後のガンジーです。トルストイからの学びの内容は“真理にしたがって生きる”ということでした。筋が通っていればこそ、少々腹が立っても従わざるを得ませんね。納得し、うなずける筋道があることも非暴力の本質です。

 私たちの本願念仏という宗教は、風呂に入っていて「いい気持ちだな、ナンマンダブ、ナンマンダブ」といったような念仏ですか?そういった程度の念仏しか唱えられていなかったかも知れませんが・・・。念仏をすることによって元気になっていく、力がみなぎってくることがあるでしょうか?念仏の意味がおそらく正しく伝わっていなく、誤解もあったであろうと思うのです。

 念仏をするということは阿弥陀さんの事業に参加するということです

 物の“願いの中に自分を”見出さない限り力は出てこないですね。阿弥陀の願いは「悲願」とも呼ばれる。完全に実現されることがないという意味で「悲」なのであろう。実現不可能であっても、人は願いをもち続ける存在です。母親が子供の行く末は見届けることはできないが、自分の死後も、子・孫が幸せであることを願い続けるが如く。

 私たちには色んな願いを持つ、勝手な願いもある。先だっても北九州で、生活保護を打ち切られ餓死した人があった。これを聞いた私たちは“何とかならないものか”と思いが生じた。なんとかならんかと思う気持ちが大事ですよね。

 戦争は二度と起こしてもらいたくない、その願いが悲願となって私達に顔を出すことがある。そのとき私たちは法蔵菩薩に出会っているのです。身近なものとなっているのです。阿弥陀の誓いは私どもにとっては、いわば北極星のようなもの。旅をする人には北極星は到達できないが、必ず必要なもの。古来より北極星という指針がなければ旅ができなかった。阿弥陀の本願はとても実現不可能ではあるが、生きてゆく指針なのであります。

 自分のことしか考えない、他人が視野に入ってこないありようの中の私に心底の願いに気付き、仏の教えを実践していくこととなることです。挫折もあるし、失敗もある。絶望もあるが、嬉しいことに、また本願を仰ぐことができる身であります。

 念仏に生きると、非暴力を生きるということは、仏のなさしめたいことをなそうとする身になって、み仏の心になりたいのだという大転換があるのです。そして、その心を生活の規範とするものが全てです。万人が平等に救われる教えではなかったのか、互いが敵、味方に分かれて戦争することを、念仏が肯定しますか。念仏を称える私が、民衆を蔑視する権力者に擦り寄っていくことができますか?力の強いものがますます富み、力ないものがますます陥っていくことを望みながら念仏ができますか。そうしたことが念仏に許されているのでしょうか?

 非戦論を掲げて非暴力の願いと共に、平和を実践し差別を否定していくことこそ、安穏な世界を宗教は、念仏の教えは目指していると思います。子孫に伝えていく念仏は、ということを含めてお話させていただきました。


<大谷婦人会の行事 参加者募集>
 9月26〜27日に、大谷婦人会・全国大会が金沢・県立音楽堂で開催されます。宿泊(全日空ホテル)交流会費・交通費等で参加費2万8千円。

人を失った悲しみの深さは 生前その人から 
 わが身が受けていた贈りものの大きさであった
   宮城シズカ





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2007年7月号

非暴力の願い  阿満利麿(明治学院教授)
発行所
真宗大谷派 称念寺
発行人 住職 伊勢徳