誰でも生まれてくる、生まれ出るというときには「身」と「土」を持ったということがあって、そのことが生まれ出たということ。この身と、この身が生活していく場所・環境を与えられた、持ったということが生まれるということです。
皆さんの中にも、私は生まれたいんだと思って生まれてこられたという人はどれくらいおられますか?私は生まれたいんだ、産んでくださいと親にお願いして生まれてきたんだと、そういうふうに思っておられる人は何人ぐらいいますか?案外おられないかもしれないでしょう。気が付いたら生まれていたということでしょう。
それは順調に行っているときは良いんですよ。けれどもさて問題が起きるとみんな言うでしょう。生んでくれとも言わないのに生まれてきてこんなに苦労するのは、あなた達の責任だと言って親に食ってかかりたくなるでしょう。生んでくれとも言わないのに生まれてしまった。どうしてくれるんだということがあるでしょう。
それなら親のほうでも生まれて来いとも言わないのに生まれてきて何を言っているのか、親の私がどれだけ苦労しているかお前にはわかるか、ということになるでしょう。だから生まれて来るということきに、私は生まれたいということで生まれておれば、どんなことが起きても私が責任を取っていけますよ。生まれたいと思ったんだからということでしょう。だから生まれるということの中には問題があるんです。なかなかこれは解決できない問題なんです。
死ぬまでそういうことを引きずるかもしれないんです。そのため死んでいくとき、こんなことなら生まれてこない方が良かったということで、生まれて生きてきたことを全部帳消しにする、無かったことにする。そういうことを空過(クウカ)というのです。空しく過ぎたと。これほど悲惨なことはないというのです。一番悲惨なこと、一番惨めなことは、せっかく生まれて生きてきてそれなりの一生があったにも関わらず、こんなことなら生まれてこない方が良かったと言って、自分の生まれて生きたことを全部消してしまう。そういうことを空しく生きた、空しく過ぎたというのです。これが一番悲惨な、一番惨めなことです。
だからどうしたら生まれてきたことを、ああ良かった、これで全て良しと、こういうふうに言って死んでいけるかという問題をみんな抱えているのです。これは親鸞聖人もきっと同じことだったのですね。
これは芥川龍之介が『河童』という小説を書いているのです。河童の世界では、いよいよお母さんのお腹から生まれてくる時がくると、お父さんの声で「お前この世界へ生まれてくるかどうかよく考えた上で返事しろ」という相談があって、私は生まれたくないと言うと、お母さんのお腹がしぼむというのです。私は生まれたいと言うと、生れてくることになるのです。
それなら、その生まれてくるときにちゃんと私が選ぶということがあるのでしょう。生まれてくることを選ぶと、ここに自由ということがあるわけです。選ぶということが自由を示しているのです。私がそれを取ることです。けれども相談なしに生まれてしまった者は、生まれてくるときに選んではいないわけです。自由がなかった。こういうのを運命というのです。だから人間というのは生まれてくる一番始めに本当に自由があったのかというと、誰も自由があったような気がしないわけです。
そうすると、それは私の一生にならないんです。自分は選んでいないわけだから、あまり生きたくないけれども、死ぬというのも恐ろしいし、死んだらどうなるかということもよくわからないし、それなら仕方がないかなといって生きてしまう。そういうのを空過するというのです。
だから大事なことは「すでにこの身あり」と、これは事実でしょう。目をつぶっても、今ここに、私が存在しているという、これは事実です。だから問題はこの身を自分の身として取るのか取らないのかです。どういう事情で生まれてきたのかわからない。しかし今、ここに、まぎれもなく私が生きているのは事実です。その私を、私として取るか取らないかという、その選択はできるんです。この私を私とするのかしないのかというのは、今の私が決められるのです。そういう自由があるんです。この私を私とするんだというふうに取ってしまったら、これは私の身になるわけです。そしたら責任を取っていけるわけです。
このことが実は本願とか念仏ということと非常に深く関わってくるわけです。このことがはっきりするかしないかということです。親鸞聖人も、「本願力にあいぬれば、むなしくすぐるひとぞなき」と、本願に遇って空しく過ぐる人はないんだと。だから本願に遇うか遇わないかということは、この私を私とすることが出来るか出来ないかということと直接関係することです。この私を他人事のように言うと、これは本当に冷酷無残です。例えば自分の子供を、これは私の子供ではないんだと言ってそっぽを向くとひどいことになるでしょう。それと同じです。
それは私だけれども私としない。私が誰かを見捨てるよりも、私が私を見捨ててしまうのが、これが一番冷酷無残なやり方なのです。だから本願に遇わない限り、いつでも私が私になれないんです。私を私としないんです。そういう非常に冷たい、冷酷な仕打ちを私が私に対してしてしまうんです。
そういう問題にどういう決着をつけるかというのが、本願に遇うとか遇わないということなのです。
だから私を本当に尊重する、この私を本当に大事にするということが助かっていくということです。自分を尊重し、自分を大事に出来ない人が、それは自分の親だ子供だと言っても、一つ間違えれば唾をかけますよ。そういう大きな問題があるのです。
- お盆のお荘厳
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- 仏具の「おみがき」をし、お内仏の清掃をします。そして打敷(夏用)をかけましょう。できれば部屋(仏間)に「切子灯篭」を吊るします。朝には「正信偈・同朋奉讃」をお勤めします。後に「お仏飯」をお供えいたします。
お盆の仏華の芯材は『槙』系の樹がとりわけ好ましい。添える花は、「ほおずき」のみで。ほおずきの葉っぱは活ける前に、除いておく。(要はすぐに萎えるから)
お盆の「一向浄苑」(市内・東栄)
13、14日の午後6時から『万灯会』の法要を勤めます。7時過ぎには、各所の灯明の火が多くなり、薄暮の中に風情が醸し出されます。またその頃には受付の混雑も解消されましょう。13、14日の『午前の申し経』は、両日の朝8時から10時まで、一向浄苑で受け付けます。
出役代行申し出た娘に感謝(2008年10月25日 徳島新聞に掲載)
毎年秋になると「秋茄子は嫁に食わすな」のことわざを思い出します。最近になり「ナスの花と親の意見は千に一つの無駄もない」という俗言も知った。今の世の中でこういう言葉が通用するのでしょうか。疑問に感じるのは二人の子を持つ親として自信がないのかもわかりませんが、新聞やテレビで報道される痛ましい事件のせいかもしれません。
我が家では、朝起きて夫や子供たちと顔を合わせた際、どちらからともなく必ず「おはよう」と挨拶し、仕事に出かけるときや帰宅後も、最低限の挨拶だけは週間付けています。
先日、地域の道づくり出役と所用が重なり困っていると、年頃の娘が「私が草刈りの出役に出るけん、任せて」と言ってくれたのです。このときほど、この娘を母乳で育てて良かったと思ったことはありません。自分では若いと思って頑張ってきたけれど、五十歳を過ぎた親の背中を見ていないようで見ていたんだなと思いました。無事、出役を果たした娘いわく「お母さん、地域の人に挨拶だけはしたけんな。」いつも温かく見守ってくれる地域の人や娘に感謝の日々です。
- 青木冷子さんのエッセイです。娘・恵美子さんが徳風の卒園児、知立小に入学したものの、しばらくして転居せざるを得なくなった。以後、寺報をお届けしている。四国・徳島の冷子さんからは、折々ほのぼのとした日常の出来事のお便りをお届けくださいます。今般、新聞に投稿され、採用された50作の彼女のエッセイ集が出版された。そうしたことから贈呈下さった。素直な筆文と娘さんのイラストの一部をご紹介しました。
- 毎月の第2日曜おあさじのテキスト『道しるべ』は約二年、輪読して読み終えました。8月からは竹中智秀・著『親鸞聖人に遇う』を使用します。専修学院の院長としての職にあって、懇切に学生に語りかけ、ご指導くださった先生です。九州の寺院でのご講話で綴られています。テキストの紹介がてら、第1章の文を引用させていただきました。
水晶の 念珠冷たき 大暑かな [日野 草城]
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