寺報 清風






         仏教の時間軸


 称念寺の新本堂の地下には、納骨堂が新設されている。近年、お墓はいらない、後継者がいない、跡取りが遠方に居住している、近くにいても墓守りは期待できない、子供に迷惑をかけたくない等、様々な理由で永代供養のできる納骨堂を求める声が増えていた。称念寺には墓地・一向浄苑があり、その中央にはどなたでも納骨できる合同墓もあるのだが、新本堂の建設にあたり新たに納骨堂も設置されたことである。

 本堂の内陣中央の御本尊「阿弥陀如来像」の真下に位置する納骨堂の名称は「応願塔」、住職の友人でありノーベル文学賞を受賞された作家・莫言氏が命名したものだ。ご縁があれば、内部の納骨壇に施された、薩摩の名工・吉永正人氏による漆に金粉を加飾した蒔絵もご覧になっていただくと良いだろう。そして、納骨堂内には御本尊「五劫思惟菩薩像」が安置されている。見学される方からは、一見するとその異様な、苦しそうにガリガリに痩せ細った菩薩像の由来や意味を尋ねられることが多い。

 仏とは覚者、つまり真理を覚ったものであるのに対し、菩薩とは修業して悟りを求める者を指す。経典『仏説無量寿経』冒頭には、今から約2500年前にお釈迦さまが弟子の阿難の問いをして、南無阿弥陀仏のいわれを説法した場面が描写されている。釈迦の在世以前の久遠の昔、錠光如来を始めとする53人の仏さまが現れては、多くの衆生を導き、やがて入滅されたのだ、と。その次に世に出現した仏が、世自在王仏であった。その時代に一人の国王があって、世自在王仏の説法を聞いて喜び、直ちに仏道を求める願いを起こして、国と王位を捨て出家し「法蔵」と名乗られた。そして仏の前に跪き合掌して仏の功徳を褒め称えた歌が、お盆のお墓の申し経で勤められる、いわゆる短いお経『嘆仏偈』である。

 この法蔵が自らも正しい覚りを得たいと思い立った時、浄土教の歴史における根源的な瞬間が訪れる。『正信偈』の法蔵菩薩因位時、すなわち法蔵は菩薩となられた。何を修行すべきか教えを請う法蔵菩薩に対し、師仏は答えを与えず「汝、自ら当に知るべし」と突き放す。なおも問う法蔵に世自在王仏は、210億の諸仏の国土に住む人々の善悪、つまり過去・未来・現在のあらゆる衆生(いのち)の姿を見せしめた。そこで法蔵は五劫という長い間、自己と世界を見つめ、思案の極限を尽くして、あらゆる人々が救われ共に生き合える浄土の世界建立のための行と願を選び取り、その願いを世自在王仏に聴いてもらったのが48の願であった。本願が成就した法蔵菩薩は浄土の阿弥陀仏となり、その成仏からは十劫という時が過ぎているのだ、と釈迦は阿難に説かれた。

 弥陀成仏のこのかたは いまに十劫をへたまへり  親鸞『浄土和讃』

 さて、奇想天外な内容ではあるが、この物語の法蔵菩薩が長い間考え尽くしたお姿が、納骨堂の本尊である五劫思惟菩薩像だ。古典落語の『寿限無』に「五劫の擦り切れ」として、和尚が紹介した長命を願う縁起の良い言葉として登場もする。諸説あるが『智度論』によると、一劫とは、40里四方の盤石を、100年毎に一度ずつ天から降りてくる天人の薄い衣で拭い払い、遂にその石が摩耗して無くなるまでの時間だという。想像してほしい。1里は約4キロメートル、40里つまり160キロメートルを一辺とする大きな岩が、絹よりもサラサラであろう天女の羽衣が100年に一度、触れることで無くなるという、途方もない時間である。その5倍が五劫となる。

 ある東大生が五劫を計算して数値化しようとしたが、羽衣の摩擦係数が解らず頓挫したという笑い話がある。またネットには、羽衣の一擦りにつき、岩の原子一つ、それを10000分の1立方ミリと仮定して擦り減ることで、五劫の長さを算出した力作もある。実際に雨の雫で岩に開いた穴もあるので、いつかその時を迎えるのだろう。しかし、アフリカにホモ・サピエンスが誕生したのが20万年前、地球上に生命が誕生したのが40億年前、この宇宙の始まりであるビックバンから138億年。今の私を私たらしめた無数のご縁は、すでに計り知れない。それより遥か昔に、法蔵が悩み抜き阿弥陀仏となった物語である。だから、その背景を現代人の感覚で捉えることは見当違いで、五劫とは単なる時間ではない。それは、老病死に苦悩する人間一人が救われることの、尽きない煩悩に迷うこの私一人のために五劫という年月を要した厳粛さだ。また、縁のまま必ず死すいのちという存在の無量の深さ、生きて在り仏の願いが聞こえる悠久の尊さを表している。

 この神話的な物語には、私自身「そんなバカな」という懐疑心を抱きつつ、曖昧に妄信せず意味を探し続けた。だが、特に通じ合えない人間関係と身勝手な欲望に関し、問題だらけの人生が解決することなく、その躓きは自身の機の問題でなく傲慢に転じてばかり。だからこその聴聞である。そこに真宗の宗祖である親鸞の言葉を通し、南無阿弥陀仏を勧めた師の法然、仏教を憲法の根本とした聖徳太子、浄土を求める現実生活を明らかにした過去の中国・印度の高僧らを経て、釈迦の説法を滅後に一言一句残した仏弟子たちへと縦糸が繋がる。釈迦が説いた如来の願心は、人間の無明を破すはたらきを持ち、法蔵菩薩の精神は御聖教の言葉をして、確かに私の人生と人間観を常に根底から揺さぶってきた。迷った時、危うい時、落ち込んだ時、そして、これで良しと思う時、いつも還るべき世界から仏が呼びかける。聞法の手掛かりは、やはり「如自當知」、五劫のあいだ慈しみ悲しまれた、代わりの無い一人一人の我が身の現実にあるのであろう。

[文章 若院]


欄外の言葉

 人生を完結する必要はない。何をしても何ができなくても良い  梶原敬一
 
 全能の神は神だが、阿弥陀は私一人が救われないと仏にならない  武田定光


≪前住職祥月法要 講師紹介≫

講師:三浦 共さん

 称念寺前住職・伊勢研学(第23代、昭和48年に西帰)の命日は、7月27日です。同日(金)の法要は午後3時から、どなたもご参詣いただけます。

 法話は、刈谷市熊野町にある安養寺の若住職さんが来られます。大学卒業後はファッション関係の仕事をしていたイケメン僧侶で、現在は寺に戻り結婚し、聞法を重ね真摯に求道しておられます。近年、本山や聞法会などで顔を合わすようになり、今回お願いいたしました。


≪光顔巍巍≫ 嘆仏偈初句

 仏像に、遠目にはわからないが薄く伸ばした金やプラチナを微細にして貼り付け、様々な模様や装飾を表現し施すものを「截金(キリガネ)」という。平安時代には隆盛を極めたが、江戸時代以降徐々に衰退し近世には忘れ去られてしまった技法でもある。今に伝える者がいた。名古屋のTさんが截金師である。細い金箔を筆に取り、もう一方の糊を含ませた筆で置いてゆく、両手で筆を操りながらの作業は一時も気を許せない。およそ800年前の技法を、現存する仏像に加飾し再現する技をいう。

 6月11日(月)、大阪を目指しての出発、途中サービスエリアで休憩がてら昼食、約3時間のドライブ。この行程は本堂再建にあたって仏具全般、錺金具、彫刻飾、金障子、彫金、什物などの修復を依頼した「八光堂」を目指した道中。5年間に幾度も走行した伊勢湾岸、西名阪、近畿道であるが、久々の長距離ドライブ安全運転を心がけて到着。ここで協力者2名と合流す。訪れたのが大阪<仏師・Mさん>の工房。以前にも伺ったことがある。久しぶりにお会いした。拙寺の御本尊・アミダ木像の経緯を説明し、修復にあたって親切なご指導を長時間にわたり仰ぐ。八尾市にて宿泊。

 6月12日(火)、午前7時、大谷派八尾別院・大信寺のおあさじに参拝。朝食後、昨晩に指摘された要点を整理した。
① ご本尊は「截金」細工を加飾する。
② ご本尊そのものには手を加えないこと。但し玉眼などの頭部は、毛はたきで油煙などを払いのける。
③ ご本尊不在期間中は、会館のお内仏のご本尊を、仮本尊として本堂に安置すること。
紹介された截金師と打ち合わせをする。昼食後に帰路につく。

 6月13日(水)、本堂でのおあさじ勤行は、ご本尊ご移徙法要に変更して勤め、お仏飯を供える。この日の参詣者には、ご本尊がしばらくご不在される旨お伝えした。搬出前にお内仏の本尊を本堂の宮殿内に転座した。その後に截金師・Nさんの工房に向かった。

 截金師は故・江里さんが一人突出して有名である。人間国宝となられて一躍技法芸術が世に知られ広がった。が、後継者が極々稀であるのが現状である。作業の期間は約100日とNさんに言われた。秋の彼岸法要にはお戻りされて、お披露目できることでありましょう。

[文章 住職]





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発行所
真宗大谷派 称念寺
発行人 住職 伊勢徳