寺報 清風







            真宗の食育

 平日の昼は園児と共に給食をいただくようになった。2歳から5歳児まで各年齢2クラスずつ、8日周期で巡回している。担任の保育士を手伝う為まずテーブルを水拭きし、その後に消毒用の電解酸性水で拭き直し、食器を並べ食事を盛りお茶を注ぐ。子供達の手の消毒が終わると、合掌し食前の言葉「み光のもと、我いま幸いに、この清き食を受く、いただきます」を一緒に唱和する。以前「給食費を払っているのに手を合わせいただきますと言わせるのはおかしい」と若い母親がある学校へ苦情を呈したことが報道され注目された。無宗教なのに手を合わせ、金を払った対価だから感謝する必要はないし、食べるだけでいただき物でもない。間違いない、と頭で考えた極端に狭い世界を真実だと錯覚し固執してしまうのは、人が誰しも抱える煩悩である。自然の恩恵や動植物の命の犠牲、農家の苦労や料理する人の願い、そして共に食することのできる一期一会のご縁など、目に見えない本当の世界が「邪見」をして観ることができない「無明」が人間存在なのだと仏教は伝えてきた。食後の言葉は「我いま、この清き食を終わりて、心ゆたかに力みに満つ、ごちそうさま」である。南無阿弥陀仏と同じく、流転する時代や環境で変わらない観世の主軸として、理解せずとも言葉に出すことが肝要であろう。

 子供がお茶を溢したりトイレなど常に多忙な担任には申し訳ないが、怒らない園長が顔を出す際はどのクラスも大騒ぎとなる。食事中に一人が話し出すと「園長せんせい聞いて聞いて」と大声で10人が同時に話し出すので、聖徳太子ならぬ私は一人ひとりの話を順に聴くのに忙しい。家庭のことや友達との出来事など懸命に話す子供達と、「変な顔して」、「ロボットの真似やって」、「トトロの声やって」、「クイズだして」など様々な欲求に応えつつ一緒に笑いながら食べている。これは東本願寺で出遇った京都大学准教授の藤原辰史さんの影響が大きい。彼は農業史を専門にしつつ有機栽培や飢餓、そして給食の研究に造詣が深い。食に関する中高生達との対談を収めた著書『食べるとはどういうことか』(農文協発行)で、「いままで食べたなかで一番おいしかったものは?」と質問する。お母さんの味噌汁やサッカーの試合後の手作りフライドポテト等の回答をして、美味しく食べるとは人間関係や物語を一緒に食べることなのだと直球で伝えている。ある京大生が初めて付き合った彼女と行ったラーメン屋のラーメンが、味は覚えていないが一番美味しかったとの逸話も聞いた。連日テレビ番組で芸人が大袈裟なグルメ実況を垂れ流すなか、全く異なる視点で食の根幹を伝道する彼が、栄養だけなら点滴で良い。時間を決めて早く静かに食べ終える「黙食」など論外で、「給食を削ってまで大事なことは何もない」と語っておられ私は深く頷いた。

 食育面では「これは豚さんの肉だぞ」とか「今日のスープはオクラが入ってるな」と話しながらの給食だが、困ったことに私は椎茸が大の苦手である。子供達は頑張って嫌いな物でも食べるのに、「あー、残しちゃダメなんだ」と指摘されつつ私は残していた。小学校時代にも食を終えた級友をあとに居残り、残した椎茸を学習机の奥に隠したり、口に含み便所で吐き出した苦い記憶が蘇る。虐待やハラスメントの疑義はともかく、園でも悲しい顔で居残る子がいる。今では「園長せんせい、きのこ食べれる?」、「きのこは大好きだけど、椎茸は食べれない」と泣き真似し爆笑されるギャグが定番となったが、疑問は燻ぶり続けた。「食べ物の好き嫌いは悪いこと」、これは保育園でなくとも常識である。実際に極端に好き嫌いの多い子がおり、それでは健康に悪く将来も困るだろうと懸命に保育士が少しずつ食べさせ、卒園までに何でも食べられるようになった園児がいた。この話をある先輩園長にすると「それは保育士の傲慢でないか」と意外な言葉を返され、その指摘で課題が更に深まった。確かに、そも禅僧は精進が基本であるし、アメリカでは多くの健康な菜食主義者に出会い、16億人のムスリムは戒律で豚肉を食べず、私の末娘も肉より野菜を好み食している。

 逆に私は、抑圧に対して反抗し続けてきた自負もある。パソコンやスマホが普及しネットゲームに溺れ続ける「ネトゲ廃人」が社会問題となっているが、彼らの多くは幼少時に厳格にゲームを禁止された背景があるという。人は自分でどうにもならない衝動を抱え生きており、幼少時代は人の記憶に残らないが、どう過ごしたかという深層は後の人生に多大な影響を及ぼす。だから保育学の分野でも、4歳までに嫌なことは「イヤ」と言えないと青年期までに爆発する、また幼児の我が儘「ヤダ」に対し説明して納得させるのでなく笑顔で抱きとめることが大事だ、とも学んできた。結局、園の方針でなく私個人の方向性として、少し食べさせ無理なら残りを残飯とし「次は頑張って食べよう」と伝えることにした。この食育の話を職員会議で共有し、「先生の言うことを聞く良い子に育った」などというのは一番危ないのでないかと問いを確かめ合った。椎茸に関しては私が嫌いだと調理員が知り、以後細かく刻まれるようになり更に困った状況となっている。

 数日後、安城市のある法話会へ身を運んだ。講師の先生には茄子の嫌いな高校生の息子がいる。ある時、ばあさんが「茄子はこんなに美味しいのになんで嫌いなの」と彼に問うた。何故と言われても嫌いなものは嫌いだとしか答えようがない。だが人間の自我意識は何に対しても、自分がこう思っていて正しいのだから、他の人も同調すべきだと強要し批判や排除までする異常な世界を作り出すのだ、という話があり聴聞しながらハッとした。解り合えず思い通りにならない私達大人の人間関係、つまりお互いに「こうあるべきだ」と個人的な善悪ばかり押し付け合い苦しむ「難度海」の現実で、同じく自己中心性を生きる個々の子供を尊ぶことなく理想像に当てはめる保育があるとしたら、仏さまが悲しむのだと私はいただいた。寺と僧侶の世界を離れ、「子供同士にトラブルがあれば保育士は裁判官にならない」と真摯に語られる素敵な保育の現場で、問いと笑顔の子供達をして共に育ち合う歩みが始まった。

[文章 若院]


欄外の言葉

 苦しむことをやめて立派になりなさいという教えではない 本多雅人

 時々それ(真宗)に呼び覚まされて、そうだったなと頷く 佐野明弘


≪一向浄苑の申し経≫

 8月13日(木)、14日(金)、両日ともに午前7時~9時、午後6時~8時まで、小雨決行いたします。例年13日夕方からの万灯会は受付が混雑しますこと、ご了承ください。

※ 自宅のお内仏の前でのお盆のお勤めは、主に「初盆」をお迎えする方にご案内しています。墓地でなく本堂納骨堂にお骨がある方は、家族と共に盆経会へご参詣ください。


≪東日新聞の記事≫

令和2年3月14日(土)寄稿
【知立・称念寺と莫言】
(2) 莫言の初来日と称念寺

 平成11(1999)年秋、莫言は初来日した。京都大学会館で講演をした後、三島由紀夫『潮騒』の舞台となった三重県の神島、川端康成『伊豆の踊子』の舞台となった伊豆半島を訪れ、10月末、東京に到着した。滞在中、新聞各紙のインタビューのほか、文芸誌『すばる』で作家・茅野裕城子と対談をし、NHK衛星放送『ブックレビュー』は小特集を組んだ。この初来日で案内と通訳を務めたのが毛丹青(マオ・タンチン神戸国際大学・教授)であった。東京に着いた莫言は毛丹青が称念寺のことを書いていることを知り、莫言は「この寺に行きたい」と所望した。毛は莫言を乗せ、自ら車を運転して東京から知立まで訪ねて来たのであった。このことは毛丹青の日本語オフィシャルブログで確認できる。

 平成11(1999)年10月28日、称念寺を訪れた莫言は、称念寺24代・伊勢徳に乞われて徳風保育園の園児たちに『雪と面餅』という幼児に向けたお話をし、毛丹青が日本語に通訳した。境内にはこれを記念する中国語の石碑が建立されている。碑文は以下の通りである。
「1999年10月28日9時30分、称念寺のお御堂にて、住職・伊勢徳に応じて徳風保育園の園児たちに『雪と面餅』というお話をし、毛丹青が日本語に通訳した。住職は歓待させていただき、感激の情に耐えず特にお話を以下に記し記念とする。莫言1999年11月3日」

文章:小池安利 (遼寧工業大学 日本語講師)

(補足=住職)
 莫言さんの初来日のスケジュールの中、10月27日と11月2日、寺で2泊され計4日間滞在された。この折のおもてなしは主に母・チカ子=前坊守が担ってくれました。①特注の和菓子『莫言饅頭』を召し上がっていただいた。②お手植えの樹木「碧玉」銀杏の樹が境内に植えられた。③文豪が筆を下した「揮毫打敷」が発案されたのが、第1回目の来寺=小池さんの寄稿記事に合わせて補足した。

 この4日間に私の夢物語とした難関の大事業が④本堂の新築であると他者に初めて打ち明けた方が莫言さんでもあった。肉食妻帯、生グサ坊主、非僧非俗の雨漏り寺で滞在した驚きの体験は、後に小説『四十一炮』が筆耕される題材となった。


 秋の彼岸(9月24日)に「五環紋」の本堂幕が、祠堂金で制作しご披露いたします。

 新型コロナ感染拡大防止に向けた対策をしています。お御堂では消毒液・マスクを準備し、参詣者の椅子席も十分に離して設置しています。ご参詣いただく皆様もご協力をお願いいたします。これから暑い日が続きますので、コロナだけでなく熱中症等にもお気をつけてお過ごしください。






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発行所
真宗大谷派 称念寺
発行人 住職 伊勢徳