寺報 清風







            小さな人と向き合うこと


 先日、やれ残業だ塾だのと各々の事情で、家族のうち三女と私だけが外食することになり、初老の親爺が一人で切り盛りする近所の定食屋に出掛けた。他に客もおらず、テーブル上のパーテーションを除け、毎度の注文後の長い待ち時間を、色々な話をしながら過ごした。間近に控えた誕生日について、小学6年の彼女の大好きな担任は、生徒の誕生日を祝う「ハッピーバースデイ」の歌を謡うことに、予めそう祝って欲しくない人の確認をすると云う。五十路が近い私も同感だが、誕生日の歌には或る種の気恥ずかしさが伴い、彼女を含め実際に半数以上の生徒が止める意思表示をするそうだ。約半世紀の間、全く気付きもしなかった、誕生日のお祝いにまで、一人ひとりの想いを気遣う、子ども達と向き合うその先生の姿勢の丁寧さに頭が下がった。

 今年のゴールデンウィークが過ぎた頃、児童相談所から保育園に連絡が寄せられた。暴力は確認されなかったが、口頭での激しい親同士の喧嘩が、園児に対する心理的虐待の疑いとなる事案であった。夫婦の口喧嘩が問題となれば、多くの方が当て嵌まろう。ここで「ああ、そうか。生活のなかで近くの大人をよく観察している子どもには、親のケンカは苦しいし辛いよね」というのでなく、「目の前で起きた夫婦喧嘩が子どもへの虐待になるなんて」と思う方は危ない。また「今の子ども達はどれだけ甘やかされて育っているのか。昔は・・・」などと考える人も多いはず。ある国内調査では「必要に応じて」、「他に手段がないと思った」等の親のエゴで理由付けされた、「しつけ」と称した子どもへの体罰を容認する人が約6割と半数以上であった。だが虐待についての悲惨なニュースが近年多く報道され始めたことで意識が変容し4割強に減少したというが、身体的な虐待ですらこの絶望的な現状があり、ネグレクトや放置を含む心理的虐待などは意識すら未だ遠い。

 近年には親が子どもを平手打ち(ビンタ)して逮捕される事例も増加し、流石に躾する側に同情する声もあるが、そこに、その体格や知識経験の圧倒的な差による、子どもと大人の対等でない関係性があることを忘れてはならない。例えば、私は常日頃、箸の持ち方が正しくない三女に再三注意する。しかし、知らない子供や外人を含む他の大人は対象とならない。つまり、私達大人が最も生き辛いと感ずる「難度海(渡ることが難しい海)」たる世間は、自分の正しさや正義を押し付け、強要し、できなければ批判し、差別や排除までしてしまう自己中心性で形成される関係の歪みに依るが、特に子どもに対し一方的に押し付けられるものなのだ。近年、注目されるLGBTQプラスの人々の権利の認知は、カミングアウトのリスクを賭し、またデモ行進や主張が為された結果である。大人であれば、その正当性を主張し、意に反したハラスメントには抗議や非難をして、それでも変わらなければ関わらないように距離を置いたり、辞職したり、引っ越しや離婚で生活環境をも変えたりする選択肢がある。だが選んで生れたわけでない親元で、社会的に無力な子ども達には、そうした逃げ道が与えられていないのだ。

 そこで保育園でも「子どもを尊重する保育」についての園内研修を行い、普段の姿勢を様々な項目で各自点検した。例えば「ずっと抱っこされていると恥ずかしいよ」という言葉掛けは、大人の価値観の押し付けである。「カッコ良くできるかな」、「笑われちゃうよ」も同様で、且つ大人の都合良く行動させるよう誘導する手段ともなっている。また、子どもが描いた絵を見て「そこ違うよ。もう一枚、描いてみる?」と促せば、それは子どもの自由な発想や表現を否定したことに。大きな声で怒鳴ったり「早くしなさい」と強要する、或いは「やらないと怒るよ」、「置いていっちゃうよ」などと罰を匂わすのは、これは恐怖心で子どもを無条件に支配する脅しである。性転換手術や同性婚、そも男か女かと自身の性別をきめないという生き方すら世界中で認められるなか、「男のくせに泣かない」、「女の子だからそんな言葉遣いはいけないよ」などと注意することは、時代錯誤も甚だしい、性別を理由にした差別である。気を付けて保育してきたつもりの私達の関わりの多くは、子ども達の純粋な気持ちを置き去りにしていた。更に難しいのは、そうした人と人との関係性はマニュアル化できないのであった。

 大人がその人間関係に悩むとき、ほとんど自動的といっても良い程に、自分以外の人を悪と認識する。周りを敵にするのだ。他人の言動が原因で、私が苦悩するのであり、その悪を正すことにより楽になりたいと想う。国同士の国際関係も同様だが、夫婦や親子、兄弟など身近な関係ほど擦れ違う。老いや病気、死も含め、私達は兎にも角にも、自分にとって都合の悪いことが嫌いなのだ。お釈迦さまをはじめ、そう生きることに真正面に苦悩し向き合ってきた先達の歴史そのものが仏教である。私達は目の前の人の背景や願いを理解する前に「こういう人だ」と決めつけ、分類し括ることで想い違いが生まれ、また相手の気持ちを受け止めることが出来ない状況で、腹を立てたり悲しんだりしている。私自身が何度も誤解され傷ついてきたからこそ、そう思う。

 先日、北海道へ赴き、エゾシカの肉を食べつつアイヌの方のお話を深く聞いた。彼らが「子どもはカムイ(神)なのだ」と受け止める、その養育の姿勢が印象に残った。小さな人は大人をあるがまま受け止めてくれる。穢れなき眼をして、名を呼ばれたり、懸命に話をしてくれることは素直に嬉しい。逆に、彼らに施す大人の教育と云えば、如何に自分が損しないようにするか、人を排除してでも苦労しない為にはどうしたら良いか。押し付けるのは都合や矛盾だらけの正義で、例えば、命は大切だと説きながら、戦争のニュースを見つつ平気な顔で食肉を美味しく食べている。子どもをカムイとまず敬うのは、自我という人間の愚かさを見据えた大地なのであろう。他人を問題にする前に、まず私という人間の愚を知らされる。「私の時代は良かったけど後はよろしく」でなく、環境も経済も歴史も現状も、そして懸命に生きてきたつもりの今の我々も含め、小さな人たちに対し「ごめんなさい」と伝えることから、共に向き合える世界が開かれるのではないだろうか。

[文章 若院]


欄外の言葉

 超えた世界を知ることで、迷いの中を生きていける立場をいただく 四衢亮

 「生きるのが辛い」と言い合えれば、それだけでも孤独が溶ける 木名瀬勝


≪若院の伝道掲示板≫

≪墓地・一向浄苑の申し経≫

 8月13日(土)、14日(日)の、両日ともに午前7時~9時、午後6時~8時まで。
小雨決行いたします。例年、13日夕方の「万灯会」は受付が混雑しますこと、ご了承ください。


≪お盆を前に≫

 夏用の打ち敷を掛けましょう。あれば「切子灯篭」を吊り下げます。
 お内仏、墓の清掃、仏具のおみがきを。
 仏花の材料、芯は「槙」と「ホウズキ」が好ましい。葉は取り除きます。


≪故・寺内タケシさん≫

 昨年6月18日、敬愛する「寺内タケシ」さんが還浄された。コロナ禍で、近親者によって葬儀が行われた。1周忌にあたって『お別れの会』が開催され、友人と一緒に参加した。開場は横浜・ランドマークプラザ5階、ランドマークホール。

 入口には遺影がかかげられ、献花し通路の遺品など並べられた品々を見て回顧する、午後4時30分にホールにたどり着く。追悼コンサートの開演。約60年のエレキ人生で関わった演奏者が次々と入れ替わり、寺内節の妙技が奏でられていく。歴代のブルージーンズ構成が見えるプログラムに感心した。終演には最後のメンバーが登場する。

 MCは息子・章さん、謝辞の後、約40名の演奏者も加わって全員でステージに、30本のエレキギターが並び奏でる、一同で「運命」「津軽じょんがら節」の大合奏、長時間にわたっての幕が降りた。午後8時30分。








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発行所
真宗大谷派 称念寺
発行人 住職 伊勢徳