寺報 清風





          爪、微生物、体温、いのち


 或る日の夕食後、高校生活を送っている次女が、思春期特有のイライラした気分で「あーもう。切っても切っても足の爪が伸びてくる」と愚痴をこぼした。私は面白いなと微笑んだ。振り返れば三人娘の子育てに、小学校を卒業するまではと、風呂に加え散髪や爪切りも私がその役割を担った。深爪の痛みか面倒からか、手指の爪が伸びても「切ってくれ」と自発的に頼まれることは稀で、不潔だから切りなさいと私の方から急かすことが多かった。高校に入り、宿題やテスト勉強には親の援助なく、生活全般にも自身の責任が増えたことで、ふと漏れた想いであったのだろう。一度、知人にこの話をしたところ「生きているのだから当たり前でしょ」と至極真当な答えが苦笑と共に返ってきた。立派な真宗門徒であれば「そんな馬鹿な」と一蹴するのかも知れないが、私には「そうだよな」と共感できた、人間の内在的な本質に関わる台詞として記憶の片隅に残された。

 世界中を巻き込み世紀の騒動となった新型コロナウイルスに関する視野も、昨今は五類に分類されたことで緩やかに変容した。一時は全国的な屋内待機だけでなく、今思えば偏執的とも言える様々な措置が強要され、個々の事情は知り得ないが、近所にも物騒な軍事用防毒マスクで買い物をする老人も出現した。そも地球上にはウイルスや細菌といった無数の微生物が生息し、目に見えないため意識してこなかったが、その総重量はあらゆる動植物より重いとも言われ、人間の腸内にも約1000種類、百兆個もの腸内細菌が存在し、私の体重の2キログラムほどを占めると云うから驚きである。この惑星で、微生物は全ての生命が生きるサイクル(循環)に貢献しており、欠かすことのできない免疫や発酵、毒素や腐敗までも自然界の必須要素である。つまり共に生きている、否、厳密には微生物のおかげさまで生かされていると言った方が正しい。しかも人間に害をもたらす微生物は全体の1万分の1以下だという。老衰の末に風邪で亡くなられたのであろうが、メディアでは「90代の老人の死因が新型コロナウイルスであった」と喚き立て、都合の悪いウイルスのみ根絶やしにしようとは、そうは問屋が卸さない。現在では過度な消毒等による免疫低下で他の感染症が流行する逆転現象となる始末だ。凡そ「驕慢」という自我、つまり仏教の課題なのである。

 仏道では、人間の「邪見」に対し、仏の「正見」と云うが、僧侶の私が傲慢でない見識を持つのでは無論ない。この3年というもの、職場の保育園でも飲食店でも、50年の人生で最も頻繁に検温し、ふと気付かされたことがある。私の平熱は36度8分だと思っていたが、中年となり変化したのか常に6度4分、自身の身体に宿る不思議な奇跡であった。最新設備のある家ならいざ知らず、風呂桶の湯にせよ、常に適温を保つなど不可能だ。因みに、一般的に「いいかげん」とは無責任や出鱈目を意味するが、これは元々仏教語であり「好い加減」、湯加減でいえば熱くもなく冷たくもない、或いは母親が「いいかげんになさい」と叱る、丁度良い具合でという生き方の「中道」を示す大切な教えである。私にとっては36度4分。日本には四季があり季節も日々移り変わる。朝晩で気温も異なり、ときに雨に濡れたり薄着しすぎたり、暑ければ冷房や除湿を設定し氷水を飲み、冬には便座すら温かく、寝床では毛布と布団で保温されている。体温は、1度でも上がればもう辛く、2度も上がれば動けまい。私の意図することなく完璧に維持されており、この事実は純粋にコロナ時代に得た、大いなる発見であった。

 ひとたび風邪を引けば、自らが死なない程度に発熱し、体内に侵入したウイルスと闘ってもくれる。二ホンミツバチの生態にも通ずる、「生きようという意思」を持つ遺伝子の働きである。天敵であるオオスズメバチが巣を攻撃すると、体の小さなミツバチは大勢で取り囲み蜂球を形成し、その胸の筋肉を震わせ周囲の温度を上昇させ、体重差が30倍もあるスズメバチを蒸し殺す。スズメバチは45度以上の環境では生きられず、ミツバチは49度まで耐えることができるため、48度まで球内の温度を上げ殺すのだ。この行動は漫画の必殺技の如く「熱殺蜂球」と名付けられている。驚嘆すべきは、蜂球に参加したミツバチの生き残りは、身に受けた熱の代償で健康な個体より余命が短くなるのだが、次にスズメバチと戦う場面では率先して蜂球の中央に行き自らを犠牲に集団を守るという。最近は、その副作用と効果を天秤に掛け追加接種をしない老齢者も増えたが、一時は巷で「若者がワクチンを打たないから私ら年寄りが困る」とまで語られた、人間と蜂との違いはやはり自我にあろう。

 今から530年前に書かれた、浄土真宗8代目の蓮如上人のお手紙に『疫癘の御文』がある。伝染病が7年半も流行した当時、現代とは異なり栄養や薬も十分でなく、子供を含む多くの人々が命を落としたという。地獄の世相の中、上人は「さのみおどろくまじきこと」それほど驚くことでない、「生まれはじめしよりさだまれる定業なり」、つまり産まれた時から病気になれば死ぬ宿命なのだと、丁寧に伝えている。少し見つめてみれば、髪の毛が伸びるのも、心臓が動くのも、食物を消化するのも、呼吸も寝ることも、休憩することや痛みを感ずることすら、全て「私」がしているのでない。私達は、当たり前でないことを当たり前にし、驚きも感動も感謝すら置き去りにし、当たり前のことを当たり前でないこととし、善悪と損得の都合で受け止める。その最も顕著な偏見が生老病死、つまり人と生まれたこと、老い、病気、そして死にある。

 もう亡くなられたが、仏教に造詣が深いユング派心理学者の河合隼雄は、その著書で「自分とは何か、見つめ続けるとすごい世界が見える」と、「戦争も飢餓も全世界が共鳴して私という人間を生かしてくれている」と語った。仏教の核心は、阿弥陀仏の極楽浄土という物語をして、人間の愚かさは、自らの眼に見える邪見を真とし迷う暗さ、つまり「無明」にあると2500年前から伝え続けた歴史に在る。先祖の供養も、墓に遺骨が納められた両親と祖父母だけでは私達の毛先程度。無量の寿こそが私の祖先なのだと、改めて教えを聴聞するところに、お盆をお迎えする意味があろう。

[文章 若院]


欄外の言葉

 人間であることの前に、全ての生き物が自分とつなかっている 武田定光

 「私」を手に入れて、私と、それ以外の人と世界になっている 木名瀬勝


≪若院の伝道掲示板≫


≪講師紹介≫

高柳正裕 師

 愛知県に生まれ金沢大学文学部を卒業後、タクシー会社、鉄工所、住み込み新聞配達員などを経て浄土真宗を学びはじめ、本山・東本願寺の教学研究所に23年間勤める。元同朋大学非常勤講師。学仏道場「回光舎」を主宰し、時代社会を見つめつつ、真剣に道を求める有縁の人々と語り合い共に歩んでいる。


≪お盆を前に≫

 自宅のお内仏(仏壇)に、夏用の打敷を掛けましょう。もしあれば「切子灯篭」を吊り下げます。お内仏の仏具はおみがきし、お墓の清掃も心掛けましょう。お内仏の仏具はおみがきし、お墓の清掃も心掛けましょう。仏華の材料は、「槙」の芯と「ほおずき」が良いでしょう。


≪夏・本堂のおみがき≫

 8月3日(木)午前9時より、本堂にて仏具のおみがきを行います。お手伝いいただける方は宜しくお願いいたします。


≪墓地(一向浄苑)の申し経≫

 8月13日(日)、14日(月)、両日ともに午前7時~9時、午後6時~8時まで。小雨決行いたします。例年13日夕方の「万灯会」は受付が混雑しますこと、ご了承ください。


≪用の美としてのお内仏≫

 市内の仏壇店の数がめっきり少なくなってきた。加えて品揃えの良い大型店などにあっては、各所で店じまいの感が顕著であろう。

 真宗のお内仏(仏壇)は特に格調が高く宗派独特の形態が見られる。大谷派・本願寺派・高田派などなど独自の什物があって違っています。燭台(ローソク立て)は鶴亀、香炉は透かしの青磁、花瓶は八藤紋・牡丹紋を表現したものである。

 輪灯は油を燃料として明かりを点したが、かれこれ30・40年前より電飾に変わってきた。この配線などが古くなって修理・付替え・LED化などが多く見受けられる修理だ。こうした事や仏具の修理・洗いなどなどは、本堂の仏具一式を請け負った、松本仏壇(大阪府八尾市)の社長、松本さんには、ご門徒各位の小さな相談や困りごとでも、格安価格にて現在も快く対応していただいている。月に一度は来ていただいているので、何かあれば寺までご相談ください。

[住職]


≪秋彼岸法要≫ 

 日時 9月23日(土) 午前8時・10時
 法話 佐野 明弘 師 (大谷専修学院長)





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発行所
真宗大谷派 称念寺
発行人 住職 伊勢徳