寺報 清風










                               講師:真城義麿さん

 最近は、豊かな世の中になり衣食住にも困ることなく、そこそこ健康で、そこそこ長生きで「天人」のような生活を私たちは送っています。これは明治以降、そして戦後、加速度がつきました。近代科学文明、この科学は色々なものを作り上げ、その恩恵を受け便利に、また快適になった日常ですが、恩恵そのものも大きいのですけれども、実は同じだけの副作用もあります。私たちは、この副作用を見ることなしに、良いところだけを見ながら生きようとしています。プラス思考などというものも、そういうあり方を後押ししています。

 私たちの都合というものからすれば、マイナスに見えるようなところも含めて、実はその全てが大切なのだ、ということを私たちは見逃しております。西洋思想というのは、良いところだけを見て、あらゆるものを目に見える形で分析し、そしてもう1回再現します。科学は、数学や形を信用する傾向が強いのです。

 大雑把な話をしておりますが、天人の様な生活をすると、うまくいって当たり前、不足があると不満になります。森岡さんという方は、現代は“無痛文明”であると、その著書で言い当てています。悩みがなくて苦痛がないのが幸せなのだ、価値が高いのだ、嫌なことはない方が良く、嫌なことには価値がない、というわけです。

 お釈迦さまがお覚りになられた根本的な真理を「縁起」といいます。これは東洋の思想です。世の中に何一つとして、それ自体で成り立っているものは何もなく、全部お互いに依って在る。縁があって起こり、存在し、支え合っている。ですから「私」もまた、様々なものを支えている大事な私であり、同時にいろんなものに支えてもらっています。

 私以外のあらゆるものも大切なんです。ですけれども、私たちはそういった点になかなか気付かない。縁起の世界ですから、思った通りにものごとは進んでいかないわけです。雨が降る条件が整えば、雨は降る。晴れる条件が整えば、空は晴れる。ところが私たちは勝手のいいように「空が晴れたのは私の行いが良かったからだ」と、雨が降ると「誰々が雨男だから」などと言うわけです。意のごとくならないのを不如意と言います。如意というのは、孫悟空が持っている武器を如意棒と言いますが、大きくなってほしいと思ったら、パッと大きくなる。思った通りになるのが如意ということです。

 人生は、不如意です。一生懸命考えて、綿密に計画して準備をしても、思い通りにならなくて、思いがけないことが起こります。また様々なつながり、関係のなかにあるわけです。思い通りにしたいけど、思い通りにならない、だから我々は苦しむこととなります。岸田秀という精神分析の先生がおられますが、自分の実年齢より若く考えられたいと思い始めたときが“老化”だとおっしゃっていますが、皆さんはいかがですか?

 仏教ってすごいなあと思います。あらゆる人々が貧しく不便だった時代も、近年の日本のように人間が天人のような環境条件に恵まれ、衣食住に困らなくなった時代にあっても、「天人五衰」である、五つのことが駄目になる、というんです。

1.生活の実感が希薄になる

2.健康ノイローゼになる。健康であるにもかかわらず、あそこが悪いやらどうやら、あなたはどこどこが悪いと言ってくれるお医者さんに出会うまでお医者さんのところに通う、と。「お元気そうですね」と声をかけられても、「いや、あそこが、ここが悪くて」と答えたりします。

3.記憶が衰える。安楽な生活をするようになると“まあ、ええわ”で過ごす。

4.誇りを失う。衣食足りて礼節を知る、といいますけれど、なかなかそうはならない。私は今53歳ですけれども、子供の頃に友達の家に遊びに行くと、そこの家のお母さんが「我が家は貧乏だけれども、うちの子供らはどんなに追い詰められようが困ろうが、人の物だけには絶対に手をださんように育てている。」また違う家に行けば、「うちの家は、お父ちゃんや誰であろうが、家の中では絶対に隠し事はせんのよ。」と言って、それぞれの家庭にも誇りがありました。

最後は5.本座を楽しまず。今の私の境遇を喜ぶことができない、という意味です。その瞬間は良かったねと思うけれど、その次の瞬間には「さらに」と思うわけです。

そういった状況になってしまう。だから天人の生活というのは、嫌なことから逃げるという生活です。何かが手に入って喜ぶよりも、失うのでないかと心配するほうが先に来る。

 「あなたは生きていますか?」と問われた時に、生きるということは、この不如意を歩んでいくことですからね。「生きてますか?」と言われた時に「生きてます」と言うよりも、「年はとらんように」、「病気にならんように」、「死なんようにしております」というぐらいのもんですね。学ぶことが多いこの人生、一生懸命歩ませてもらっております、という感じになかなかなりません。

 生老病死の一切をできるだけ見えないところに追い出してしまう。出産も外です。子供が生まれるっていうのは、人類始まって以来なにも特別なことではありませんでした。昭和35年頃には、おおよそ自宅出産と自宅外出産が半々でした。この後、徐々にすべて病院出産になっていくわけですね。これと並行して、私たちが家族皆でそこの家庭に子供が生まれるということから教えてもらう色々なことを、子供たちも含めて、私たちはそういうものに触れる機会をどんどん失っていった。家族の誰かが病気を患う、誰かが年をとってお世話せなならんようになる。あるいは家族だけでなく、地域の中でも隣近所の人、大事な人が亡くなってしまわれた、というようなことにおいて、共に生きる全てのことが関わっていた。出産という事だってそうでした。今は子供が生まれる、育てるということが、みんな私事になってしまいました。

 このことは私事であるはずはありません。私そのものも、私事ではない。私が生まれて生きていることは、私一人で解決できるような問題ではないのです。私が思った通りに生きていけりゃ、それでいい。そんなわけにはいかないんです。いくはずがないんです。皆つながって関係し合っているのですから。

 私たちはいつのまにか、天人のような生活をし、科学的に色々なものを創造し、人間の知恵と人間の労働力が素晴らしい世の中を作ってきた。そうしたなかで、人間はいつのまにか、流行の言葉で言うと、人間が材料になってしまった。“人材”ということですけどね。材料というのは、役に立ってはじめて値打ちがある。役に立たなければ値打ちがない。人間の価値観をそこに求めたんです。あの人は、私にとって都合がいい人が良い人材。都合の悪い人は悪い人材。人間そのものを見るよりも、その人が私の都合に合う、何がどのくらいできるのか、そういう風に見ています。

 それは人間そのものの値打ちではなく、その人が後から身につけた値打ち、付加価値と言いますけれども、こういうもので人間の値打ちを見ていくわけです。それが、私たちにはいつのまにか癖になってしまった。英語がよくしゃべれるとか、力が強いとか、目が良く見えているとか、いろんな能力を後から習得して、それがどういうことかというと、商品価値、お金を生み出すものである、と。

 人間は生まれてから、死ぬまでの間ずっと人間です。ですけれども、しばらく人材として私が働くということが、お金を生み出すということにつながる時期があるわけです。これはとても大事なことです。ところが、ここで順調に行けば行くほど、よう働いてよく稼いだ人ほど、年をとって自分の身体ひとつが自分の思い通りにならない思いを強くします。今までのように私が働けば金を生むという、今晩、全てのお金をスッカラカンに使い果たしたって、私のこの黄金の右腕でちょっと仕事すれば、また明日お金が入ってくる、と。こういうふうに自分の思いを持っている人ほど、これができなくなったときに自分の値打ち、自分の尊さというものを見る場所がなくなってしまいます。

 長生きをする、というのは、人類始まって以来の夢が叶っているのです。人類が始まって以来、ずっと長生きできる世の中というものを目指してきました。それが、実現してですよ。今、日本の平均寿命というのは、ものすごいですから。地球人全部の平均寿命のほぼ倍なんですから。わかります?今、地球全体の人間の平均寿命が、40いくかいかないかなんですよ。地球人全体ですよ。これ、わからんのですよ、統計のない国がありすぎて。推定40前後でなはないか、と。地球人全体のね。

 もう、皆さん残った老後をどうやって塗りつぶすか、ということで困っているのですからね。で、どっから「つまらんようになりました」という言葉が出てくるのだろうなあ、何がそういう言葉を言わせているんだろうな。「70年かかってやっと手に入った70だから、喜ばにゃ」と言うと、「いやいや、つまらんな」というわけです。それは何かと言うと、自分のことを人材としか見ることができないからです。

 残念ながら人間は年をとったら、人材としての値打ちは下がっていきますわ。記憶力とか。記憶力が悪くなるのか、思い出す力が悪くなるのかはわかりませんが。人の顔と名前をね、顔は思い浮かぶ、名前がなかなかね。それから、新しいものに対応する力。これは年と共に、だんだん衰えてきます。私はホンマに思いますよ。日本でなんでこういうことができんのか、と思いますが、リモコン、これはメーカーに関わらず、テレビのリモコンは白、エアコンのリモコンは黒、扇風機は赤、テレビは黄色としてもらわんと。わかればいいんですけれども、私がおまいりに行った先々で、扇風機一つ回し始めるの、大変なんですから。昔の扇風機は、0123、迷うことは一つもありません。首を振らすのも、押したり引っ張ったり。

 今はリモコンがついていて、田舎の一人暮らしのばあさん、一人暮らしの家の電化製品なんてものは、一番高級の、一番最新型がそろっているわけです。何でかわかりますか?都会に出ている息子さんらが、心配でたまらんわけですよ。そういう時に、母親から電話がかかるわけです。「すまんがのう、ちょっと扇風機の調子が悪いんじゃが、新しいのを一つ送ってくれんかのう。」と電話すると、マツヤデンキかヤマダデンキか知らんけど、一番いいやつをすぐさま送ってくる。これが都会の人のものの考え方で、0123だったら迷うことありゃせんのに、まず扇風機といえどもリモコンでしょ。漢字で書いてあればいいですが、微風とかね。私がおまいりに行ったときでも、ホンマによその扇風機は大変なんですから。教えた時、しばらくは使うけれども、そのうちわからんくなるから。扇風機をつけますわ、とつけたらテレビがついたりね。そこに値打ちを見ておる限り、それは「つまらんようになりました」と思わざるを得ない。

 人間はですよ、少々記憶力が悪くなろうが、寝たきりになろうが、痴呆というか認知症になろうが、目がうすくなろうが、耳が遠くなろうが、おしっこが近くなろうが、そんなことは関係なしに尊いんです。

 子供の良い人材のことを、良い子というんです。この子達は、自分を見る人の都合を先回りしてキャッチして、その人が喜ぶように振舞えば良い子と見てくれることを、ほんとに小さいときから身につけてます。先生の目を意識して学校でやる、お母さんが喜ぶことを家に帰ったらする、近所のおばちゃんが喜ぶ姿を近所では見せている。そうしてるうちに自分自身がバラバラになってしまって、私はどこにいるんだろう、と。今の日本中の良い子たちは大変な状態であります。

 良い子は、「私」を生きていないんです。いい子だなあ、いい子だ、と言われれば言われるほど、苦しんでいくんです。小学校へ行くちょっと手前くらいの女の子が、法事の席で親戚のおばちゃんに、両親も近所の人もおるところで、その子は気の小さいビクビクの子なんですけど、「あら、誰々ちゃんね、あんたのおおらかなところが大好き、大らかなところ大事にして失わずに素直に育ってね。おばちゃん大好きよ。」って親戚の人が皆の前で言うわけです。褒めるわけです。よかれと思って、善意でやっているわけでしょう。

 ところが、その女の子は、それ以降、その大らかという服を脱ぐわけにはいかんのです。親の前でも一生懸命大らかに、大らかに見せていくわけです。もう誰か一人でも、他人がおれば大らかな姿を見せていくわけです。だけど、続くのは10歳までです。それを過ぎたら、もう身が動かない、疲れ果ててしまいます。こういう風に、追い込んでしまうということが、私たちが知らない間に「よかれ」と思って言っている言葉で、ズタズタに傷つけているのことが実は沢山あるんです。

 子供たちには、大事なことは、人間というものは、良いところも悪いところも両方ある、と。大らかなところもあるし、小心なところもある。出来ることもあるし、できんこともあるんです。それが人間なんです。どっちかだけというのは、あり得ないんです。

 特に、爺ちゃん婆ちゃんは、そこを大事に見といてもらわないといかんのです。「お前が良い点取ろうが、悪い点取ろうが、わしから見たら、お前は大事な大事な孫以外のなにものでもない」ということをちゃんと孫に伝えることが大事なことです。うまいこと言っている時が褒めてもらえる、お母さんが喜ぶことをしている時だけが、お母さんから愛してもらえる、ということではないんです。親は子供を社会人としキチッと送り出さないといけない、という責任があるから厳しく言いますけど、爺ちゃん婆ちゃんは、ちょっと違うものの見方が大事です。

 例えば、よちよち歩きの子供が歩いていて、机の角で頭をぶつけて泣いている時に、母親だったら「前を向いて歩きや」、これでいいわけです。婆ちゃんは違うでしょ。「誰が机を置いたのや、悪い机だね」と。机に怒っているんです。子供が、自分が失敗して机に責任がないことがわかっている、わかっているけれども、敢えて理不尽にもおばあちゃんは机を責めて孫を責めない、これが嬉しいんですよ。孫からすると。

 私たちが都合の面でしか、この大事な我が孫でさえ、そういう目でつい見てしまう。このような私たちは、ときどき目の掃除をせなアカンですね。この現代科学文明というものに副作用が色々ある、ということを申し上げたのですが、人間というものは、比べることができませんし、数学で表すこともできない。ですけれども、それでは落ち着きどころが悪くて色々とわかり易いところで価値を見ていく。それからもっと厄介なことは何かと言うと、この近代科学文明というものは衣食住に困らず、いつでも水道の蛇口を捻れば水が出て、ガスがつき、どこに行ってもテレビが映り、というふうになっていくわけですけれども、それが行くところまで行きますと、今度は“孤立”ということが始まるわけです。一人一人に都合の良いようなっていったほうがいいんだ、ということです。

 暑がりの人と寒がりの人が自分の個室で、それぞれのエアコンで快適な室温で生活する。水戸黄門が好きな人はそれを観る。歌番組がいいものは歌番組を観る。それぞれが自分の好きな時に。その時間に観れなければ、ビデオに収録して見ることもできる。電話でもそうです。それぞれが携帯電話持って、好きなときに好きに使う、という、個人単位でうまいこといくのが幸せなんだ、というふうにいつのまにか思う常識がついてしまった。

 人間の、人間という言葉はよう出来ている言葉でして、間というものは、つながりとか、関係性というものを表すわけです。しかも、牛でも馬でも、鳥でも猿でも、その動物を表す言葉だけがあればいいにもかかわらず、我々人間だけ「間」という字がつくわけです。しかも、間の上に人が成り立っている。我々が、このつながりや関係性のところに安心ができない限り、なんぼいい目にあおうと思って一生懸命癒していっても、根本的に絶対に癒されないように人間はできてるんだそうです。今、日本中が癒しブームですけれど、春日武彦さんという精神科のお医者さんは『何やっても癒されない』という本を出したんですけれどもね。

 仏壇に花・線香あげんでも玄関にはアロマテラピーの線香があって、CDラジカセからは心地よい調べが流れておって。癒しで温泉行って、風呂入って、しばらくは気分良くしているけれども、つながりに安心できない限り、自分だけ癒されたらいいと思って、どんだけ癒しをやっても、人間は根本的に癒されないと、精神科の先生はおっしゃっておられます。

 ところが、法律を変えてしまって、とにかく私だけ良ければよいという世の中になってしまった。あらゆることが私事、プライベートなことになってしまった。そうすると、出産して子供が生まれて、小さい子供を育てるのにお母さんは生まれて初めての経験なんですから、うまいこといくはずがないんですよ。いままでずっと人類が始まって以来、色んな経験を先輩方に教えてもらいながら、手伝ってもらいながら、それぞれきたわけですよ。日本も16くらいで出産するのが当たり前になれば、みんな手伝うと思いますよ。

 だけれども、29や30くらいで出産が始まると、もうイッパシの完成された人間という自覚がありますから、そんな人に頭下げて聞くのもなかなかだし、結局どうするかといったら、育児書、情報を仕入れて、それを見ながら子供を育てるということになって、悪循環になるんです。もう、どんどんひどいことになっています。だから、ある人たちが、昔のように家族以外のものが誰か家におる、というのはとても大事なんだ、とこの頃言われ始めています。居候がいたり、書生が住んでおったり、ちょっとした家だったら、お手伝いさんがいたり、色んな人がいて、他人が一緒に家の中にいるというのが、ものすごく大事なことです。

 それが今、全部なくなって、身内だけになってしまうと、そこには「恥」とか、そういうことも全然ありませんし、もう、あるのはそこに住んでいる者の都合だけなんです。こんな風に、人間が人間でなくなっていく、ということがいつの間にか進んできてしまっているんです。どれ一つとっても大変なものです。そういう私たちが、もう一回やっぱり人間に戻らなくてはならない、人間であるということをちゃんと、こう思い出さないといけない、ということであります。

 なんでこういうことが起こったか、というと、人間は思い通りにならない。我々人間が生きる場所を娑婆と言うわけですが、耐え忍ぶ場所、思い通りにならないのですから、我慢しなければなりません、ということです。昔は良く、「堪忍ね、堪忍ね」と言いながら生活していたけれど、この言葉もなくなりましたね。

 私も学校で生徒に点数を付けます。それは科目の評価がどれだけだ、ということであって、あなたの人間の評価がどんだけだ、ということではありません。だけど親は赤点がついたら、人間そのものが否定されたような気になるんです。そうではない。心配ないよ、どんな人のどんないのちも皆で支えるよ、現に支えているよ。皆さんが今、生きているということは、この支えのはたらきのうえの話だよ。こういう呼びかけがあって、私たちは娑婆を生きぬくことができる。

 だけど、そういう根本的な支えがあるということを見失ってしまったらどうするかというと、経済と科学の力で娑婆を住み易く改善するほかないわけです。そうやって、電気ガス水道鉄道、何でもかんでもこうして便利にしてきたわけです。これが近代化というものです。近代化、というのは宗教を見失って、思い通りにならない私が生き生きできることの世界があったにもかかわらず、それを支えてくれるものを見失ってしまったために、お金と科学の力で娑婆の改善をせねばならなくなった。

 人間というものは、思い通りになりません。だけど心配ないよ、という世界がある、ということであります。人間は代わりがきかない。代わりがある、ということそものがあり得ない。「無量」の無と一緒です。代わりがある、という考え方そのものが成り立たない。皆さんお一人お一人が「私一人ぐらいが」、「どうせわたしなんかが」と思うかもしれないけれど、一人一人はかけがえがないんです。皆さん一人が生まれてくるのに、30何億年かかっているのですから。こんなことは二度とない、その二度とない奇跡が起こっているようなことです。皆さんにも、私にも。

 あなたはあなたを生きる。私は私を生きる。60になれば60の私を生き、70になれば70の私を生きる。結婚したら、その夫婦の生き方で営んでいく。寝たきりになろうが、記憶力が悪くなろうが、あちこち身体が調子悪くなろうが、そんなことは一切関係ない。どういう状況になっても、ただ我一人にして尊し、というのが付加価値をつけなくてもいいということです。

 そのこと自身が尊い、私たちは尊いものとして生まれている。その私たちは、ということは、私もですし、隣にいる人もですし、見たことがないどの人もです。他人だけではない、自分の中の尊さを失ってしまった私たちは、私を、自分で自分を粗末に生きてしまう。私たちには、自分で自分の人生の一部を捨ててしまうことがよくあります。「こんなことになるんだったら、あの時間は無駄だった」、「あの手間やお金は損した、早く忘れよう」、そんな思考ではダメなんです。

 阿弥陀さんから見れば、あなたの人生のどのひと時をとったって、捨てるところは一つもないよ。あなたの人生、思い通りになったこともならなかったことも、全部あなたにとって必要なことです。強みがあり、弱みがあり、いいところがあり、情けないところがあり、好かれるところがあり、嫌われるところがある。両方持っているもの同士ということで、平等なんです。弱いもの同士です。本当のことがわからんもの同士です。年をとらねばならんもの同士です。病気にならなければならんもの同士です。支えあわなければ、生きていけないもの同士です。もっと言えば、死ぬもの同士です。

 お釈迦様の古い時代の言葉をそのまま記録したといわれる『法句経』というお経がございます。有名な、「この世において、恨みに報いるに恨みをもってせば、その恨み止むことなし」、恨みを捨ててこそ恨みが止むのであると、これは永遠の真理である。親鸞聖人はちょっと違う言い方かもしれませんが、「本願力にあいぬれば、ぬなしくすぐる人ぞなし」と。

 思い通りにならないかもしれない、それは無駄なことでもなければ、虚しいことでもないのですよ、と。年と共に擦り減っていくのが知恵です。記憶力とか、新しいものに対応する、こういう知恵は残念ながら年と共に衰えていく、そればっかり嘆いたらアカンのです。もう一つは、年と共に深まっていく智慧というものが我々にある。思い通りにならない経験をすればするほど、深まっていく智慧、あるいは澄んでいく眼。今まで見えなかったことを見ることができる、今まで聞けなかったことを感じることができる、そういうことを裏付ける智慧。

 そういうものは、思い通りになって、順風満帆でスイスイ行っておる人は鈍感なんです。「何で私がこんな目にあわんとならんの」、「何でこの苦労した私たちが報われずに」と思うようなことがあればあるほど、私たちの“受信機”だとすると、その受信性能があがるわけです。色んなことをキャッチできるようになる。今までなんでもなかった、言葉の一つが、「はぁ、有り難かったなぁ」ということです。天人の世界というのは、あらゆることが当たり前の世界です。人間の世界は、あらゆることが有り難い世界です。これはおおちがいです。

 順調に行くことが当たり前だったら、何一つ足らんでも不足です。思い通りにならんはずの私たちが、機能三食食べることができた、ということがどれぐらいすごいことか、ということです。目の前に現れてくる一つ一つが、在ること難しです。様々なご縁で、支えで成り立って、今現にこうして私がある、ということが与えられ、続いておる。そんななかで、あらためてどの命も尊いということ、そして、どのいのちもつながっているということ。

 アメリカ兵がイラク人を殺したのは他殺ではないんです。自殺なんです。つながっているんです。右手で左手を殺したようなもんです。私たちは皆繋がっているんです。ただ、私たちはその、人の尊さが見えない、わからない、そのために鈍感になって生きますけれど、大事な人ばかりです。大事な人の中で、私も大事な人として生かされている、ということは、時々ご本尊さまに手を合わすときに思い出して、大事に、丁寧に生きるということを、喜んですすんでいけたらなあ、と思うことであります。






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われ人ともに尊し
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真宗大谷派 称念寺
発行人 住職 伊勢徳