寺報 清風












 多忙であった盆も過ぎ、寺は住職に任せ6日間の休みを得て旅に出た。私が初めてカンボジアを訪れたのは今から10年前。陸路で入ったタイとの国境付近の村はずれには国内600万個といわれる地雷が埋められたままで、当時は自由に歩き回ることすらできなかった。アンコールワットや首都も見ていないので、今回は広州経由で、アンコール遺跡群の玄関口であるシェムリアップに直行し、帰路はプノンペンから出国する往復3万5千円の格安ルートをとった。初日と6日目はほぼ機内の予定だ。

 バックパックを担ぎ早朝に寺を出発、中国での乗り継ぎを経て14時間後に到着。空港でビザを申請し、バイク(タクシー)の後部に跨り街に出て、その日の宿を探しに行く。かなり暑いだろうと覚悟していたが雨期で涼しく、雨上がりの夕焼けと心地よい風に迎えられた。私達日本人のカンボジアの印象といえば、貧困、ポルポト派、地雷、内戦といった負のイメージが多いが、以前の様に地雷で手足を亡くした物乞いも少なく、世界遺産を有する街は観光地として小綺麗になっていた。だが私はクメール語が全くできないので、現地人(クメール人)とのコミュニケーションに苦労した。

 屋台で食べ歩き徒歩での散策も終え、結局、英語が堪能で好青年であった空港からの運転手「ネット」に電話する。バイクで外人だらけの街を離れ、地元の人々が集う倉庫を改造したような居酒屋へ。地元産「アンコール」ビールには、黒ビールもありアルコール度は8%、安くて美味い。外はいつの間にか土砂降りとなり、停電で店内が真っ暗になった。すぐテーブルにロウソクが灯された。硬い肉をつまみながら、生活、経済、地雷などの現状について色々教わる。2人で6本空け、雨の中バイクで2件目に移動。カッパは一つしかないので、私は彼の背中側に頭を突っ込む。視界は運転手の背中と地面だけ、誰も知らない国で夜遅くに何処に向かうのか。無事に初日の夜は更けていった。

 2日目は日の出前に遺跡を見ようと、早朝5時に迎えに来てもらったが、雨が止まず断念。暁に浮かぶアンコールワットにはご縁がなかった。ネットが屋根付きのトゥクトゥク(バイクの後ろに2輪の椅子を付けたもの)を用意してくれ、いざアンコール遺跡へ。密林の中に静かに佇むその威厳は、確かに12世紀に極めて繁栄したクメール王朝の息吹を感じさせたがさしたる感動もなし。その存在すら知られていなかった約150年前にフランス人博物学者アンリ・ムオが再発見した姿は、度重なる修復で失われ、70年代に政府軍に従軍してアンコールワットの写真を撮ることに青春を懸けた一之瀬泰造のような苦労もせず簡単に来たからか。続けて都城アンコールトムの中心にある仏教寺院バイヨン、密林の樹木に浸食されたタプローム、地雷博物館へと足を延ばす。クメール人の8割が農業に従事するが、街道沿いの田畑に囲まれた素朴な暮らしぶりに、70年代後半にポルポト派により国民の4分の1にあたる170万人が虐殺されたことは想像に難かった。

 3日目にシェムリアップは離れようと決めた。列車はなし、湖を下るボートも水位が低く運休で、朝6時半のバスに飛び乗った。プノンペンで乗り換え更に約200km南下し、シアヌークビルというタイランド湾に面した街へ。途中のバス停で現地人にいただいたマンゴーはリンゴの様な食感で、彼らに習い甘いチリソースを付けて食べた。移動が14時間かかったので到着は夜8時過ぎである。砂浜際の丘陵地の安宿に入る。傘を借り短パンにサンダルでバシャバシャと夜道を歩き旧市街(とはいっても夜は小汚い通りの両側にバーや食堂が並ぶだけ)へ出掛けた。宿では水のシャワーを浴び、トイレでは紙がなくそれ用の小型シャワーと左手で尻を洗い、苦労して辿り着いた店先で飲む「この1杯」は最高である。ここでは度数6.5%のラオス産黒ビール「ビアラオ」が気に入った。

 調子の出てきた私の迷走は続く。次の日、更に北西に220km離れた国境(タイ)の街コッコンへ向かった。多少悪路であったが昼過ぎに着いたので、コッパオ川沿いの洒落たカフェで、ゆっくりと読書して午後を過ごした。中国から密入国でゲリラ軍の助けを借りビルマを抜けてインドへ旅した記録『西南シルクロードは密林に消える』(高野秀行著)や、山岳小説の傑作『神々の山嶺』(夢枕獏著)の主人公のモデルとなったアルピニスト森田勝の生死を描いた『狼は帰らず』等を旅の途中に読み耽った。夜には町の居酒屋で店の主人と酒を酌み交わす。彼のあだ名は「Mr.42」、かつてバイク(ナンバープレート0042)の運転手をしていた時、名前を忘れた外国人から「42番さん」と呼ばれ、それから運気が上がったという。看板を見ると店の名前も「42」、今では宿泊施設付きの居酒屋を所有し、しかも国産の車も買ったという。私には「お前のようにイケメンでフレンドリーな日本人に会ったのは初めてだ」などとお世辞を言い、常にニコニコ楽しい人であった。

 すでに最終日の前日であった私はコッコンを離れた。途中エンジントラブルで何もない田舎で2時間立往生し、疲れた体で首都を縦断するトンレサップ川沿いの安宿にチェックイン。ポルポト時代には廃墟と化したプノンペン市街が、今では格差社会でレクサスなど高級車の渋滞ができている。屋台市場を歩くと新鮮な野菜が山と積まれ、旅の途中に生でかじった私の大好物「ささげ」もある。他にも肉類、魚介にフルーツ、服や玩具まで揃ういわゆる「商店街」である。ガヤガヤと買い物に来た地元の人々でアジア特有の活気に満ちている。ちょっとはずれた暗い通りでは、体格の良い男達が上半身裸で博打に興じていた。近場で出会った私と同世代の「アイラン」は、離婚した妻子がおり金ばかり欲しがり、バイクの運転も案内も大層頼りない奴で苦労した。

 歴史や外交に翻弄され、極度の貧困と内戦や裏切りの緊張のなかに暮らさなければならなかった人々も多く現存する。しかし彼らが今、何を感じ何を願うのか、たった6日間でわかりようもない。私は闇雲にウロウロしただけであるが、旅の途中に出会ったクメールの人々から聞いた、私達日本人が忘れてしまった夢や希望、そして生きることへの懸命な眼差し、また都会の喧騒や田舎の静けさに漂う東南アジア特有の風や匂いは、やはりどこか懐かしく、温かくもあった。


[文章 若院]



≪新・本堂の天井板への記名受付≫ 

 新本堂にご寄付をご進納いただいた方々から希望者を募り、天井板の裏面に「言葉」、「家族名」「ご芳名」または「法名」を筆記していただきます。方法につきましては、@お寺で、A自宅で、書くなどできます。マジックインクで、また毛筆使用を推奨します。1名または1家族に彫刻した天井板1枚を記名していただきます。詳細は、住職までお問い合わせください。期間は9月22日から約半年間の設定をします。


≪書写の会≫

 第2回は10月6日、午後7時から。親鸞聖人のおことばに触れ、書いて学びましょう。筆記具は@毛筆、Aボールペン、B鉛筆等、各自が筆記具を選択できます。会費:2000円(6か月分、教材を含む)。題材は、正信偈の楷書の手本を使用します。お誘いあわせお出かけください。

 第3回目のテーマは、「新本堂の天井板に記名する」です。11月3日(第1土曜日)、午後7時から。


≪新本堂の屋根は?≫

 日本家屋は「瓦」で葺いてあるのが見栄えが良いとし、一般家屋には多く「平瓦」が葺かれ、寺院建築物には「本葺き」の瓦構造が、屋根の美しさ、荘厳さを醸し出してきた。しかし近年新築された家の屋根を見たならば、瓦を使用した家はごくごく稀になった。施工が安易な様々な屋根材が次々に開発されてきた。

 本堂の屋根については設計士さんと何度も意見交換をした。また専門の業者さんに来ていただき施工内容などの説明を受けたりもした。錣(シコロ)葺きの本堂の屋根は、ステンレス製とし、形状は「本瓦」風のものを設置したいとした。ステンの「平瓦」は既に使用されているが、ステンの「本瓦」は加工しにくいためまだ無い。よって(株)カナメに今回特別に開発いただいた。本社は栃木県宇都宮市に所在。(建築委員会より)








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2012年9月号

クメールの風に吹かれて
発行所
真宗大谷派 称念寺
発行人 住職 伊勢徳