寺報 清風











 私は旅も好きだが、映画も好きで、テレビはほとんど見ない。テレビを見る時間があるなら、映画を観ていたい。お参りや寺務、家族との時間の合間に、年間で多いときは200本以上、少なくとも100本は観ている計算である。近くのレンタルビデオ屋では新作でも5本を1週間借りて丁度1000円、安いものである。休日前の夜などは、子供を寝かせてからは妻も一人の時間を過ごすので、私も私で映画を2、3本続けて観ることもある。ちなみに私は酒も好きだが、自宅で夜を過ごすのに晩酌はほとんどしない(妻も飲めない)。かつては4000円程していたDVDの値段も、近年は500~1000円とCDより安くなり、何度も繰り返し観る映画は買うようになった。

 曽我量深という先生は、新聞と赤表紙(『真宗聖典』のことで浄土三部経や親鸞聖人、蓮如上人等の著作が網羅されている)を常に読まれていたそうだ。仏教では、現実を生きる私達人間が自分を深く見つめることから、内なる願いや心、ありのままの欲望や自己中心性等が知らされる。また、仏様(仏像)の多くは、目が閉じているように見えるが実はうっすらと開いている。これは自己を習うと共に、外の世界で起こっていることも自らに関係することとして、無関心ではいないという基本的な仏道の姿勢が表されている。ただ私は新聞も読まず、テレビではドキュメンタリーやニュース番組もたまに見るが、基本的には寺務所にあるパソコンのインターネットで社会欄にざっと目を通す程度で、映画や書籍から自分以外の世界と人々について学ぶ時間の方が圧倒的に長い。

 映画を趣味とすることには、とにかく時間がかかる。だから私は「若手の映画評論家」などというものは成り立たないと思う。かつて日曜洋画劇場の解説で、最後の「サヨナラ、サヨナラ、サヨナラ」という有名な語り口の故淀川長治氏は、当たり前だが優に1万本以上の映画を観たと言われ、「ベスト1000」という著書もあるくらいだ。1万本とは、1本につき2時間として2万時間、毎日2本観たとして約14年かかる。1度きりの人生の限られた時間を一人孤独に過ごし、時に自分にとって面白くない映画に2時間も費やしてしまうことは辛いが、それでも音楽を含め、愛すべき映画からの深い学びや、世界観の広がり、感動や悲しみを感じることには代えられないのは私も同じである。

 私が好きなのは、有名どころの国内の監督では黒澤明、深作欣二、北野武、海外では職人リチャード・フライシャー、映像美のスタンリー・キューブリック映画オタクのクエンティン・タランティーノ等、その他の監督だけでなく好きな俳優女優を含め挙げればきりがない。ジャンルでは主にクライムアクション、フィルム・ノワール(犯罪映画)、ノンフィクション(戦争や事件などの実話)、またカルト映画(酷評を受けてもなお熱狂的な一部映画ファンにより再評価された映画)や50年代から80年代のアメリカ映画の名作佳作も特に好んで観るが、それ以降のハリウッド映画にはあまり興味がない。特に90年代以降は、映画『タイタニック』や『ジュラシックパーク』に代表される様に、映像技術が発達してCG(コンピューター・グラフィック)が多用されるようになり、SF映画でも製作費ばかり嵩張りかつての監督やキャストの熱意が感じられない作品が多くなってしまった。だがいずれも英語の学習を兼ねることができる。

 また私の場合は単なる娯楽に留まらず、映画中の宗教者にも注目している。例えば『フロム・ダスク・ティル・ドーン』(96年、ロバート・ロドリゲス監督)の主役で、ハーヴェイ・カイテル演じる、妻を亡くしたバプティスト教会を辞めた元牧師は、娘に「もう神は信じないのか」と問われ、「神に仕える者はある共通した疑問を根底的に持っている。それは牧師でも司祭でも尼僧でも仏教の修行僧でも、鏡に映る自分の顔を見て一生のうちに何度も自問する。“私はばかでは?”と。この迷いに私は負けた」と答えている。寺に生まれしっかり跡を継ぐことも大切だが、自らの信心(浄土観)を真摯に問い続けることは現在の私の課題でもある。他にも『ポセイドン・アドベンチャー』(72年、ロナルド・ニーム監督)は、津波で沈む豪華客船ポセイドン号を舞台にしたパニック映画の傑作であるが、名優ジーン・ハックマン演じるスコット牧師の死の脱出劇には、宗教の違いを超えてその信念と行動力が素晴らしく、先日吹き替えで娘達とも一緒に観た。また『マシンガン・プリーチャー』(2011年、マーク・フォースター監督)は、アメリカのある犯罪者が更生して牧師となり、後にアフリカのスーダンに赴き内戦の最中で子供達の命を救うために戦っている、実在の“銃を持った牧師”サム・チルダース氏の半生を描いた作品である。まだまだ世界は広く、私の知らないことで満ちている。

[文章 若院]



≪工事の作業場の確保≫ 

 8月27日から、本堂工事のための資材搬入路が確定され柵で囲まれました。その中に2階建の現場事務所が仕組まれました。安全を期するため境内全域に障壁ネット板が張られ、境内地と駐車場が分離されました。お庫裡、会館にお越しくださる折、山門から柵に沿って進み、庫裡にお越しください。なお車でお越しの節は、境内の南の入口(双樹門)から進入し左奥に拡張された駐車場を利用してください。

 工事日程では、基礎地盤にパイル(杭)が埋め込まれます。今月に予定されています。続いて10月、基礎コンクリートの設置作業が開始されます。


≪礎石はどのように置くか?≫

 礎石は本堂の重量がかかる大切な部材で、太い柱の下に据えます。伝統的には礎石の下の土を固め、根石を敷き並べた上に据えますが、近年ではコンクリートの基礎の上に据えます。実際には鉄筋コンクリート基礎が支持します。従って昔に比べると重量を支える役目は薄れたので全体が丸くカットされた40cmほどの台石を使います。注:使用する鉄筋は溶融亜鉛メッキし、長寿命化を図ります。


≪素屋根は必要か?≫

 素屋根は、主に寺社の建物を新築・改修される仮設(工事中のみ必要とされ、建物が完成するときには解体され後は残らない)の屋根です。近年では、本山・東本願寺の御影堂、浅草寺本堂の改修に際して大規模な素屋根が設けられています。

 素屋根の構造は、主にボルトを使って部材同士を繋ぎ合わせることができ、強度の高い鉄骨構造を採用する事例が多いようです。前述の通り工事中のみ必要とされ、建物の完成後に取り壊されるわけですから一般寺院の本堂新築現場では省略されることが多いのですが、拙寺の計画した本堂の各種部材(支棆、彫刻天井、束飾りなど)が高品質であることから「建設委員会」の議題に素屋根の設置をするかどうかを検討しています。9、10月の委員会にて判断します。素屋根を設置することになれば、追加工事として工事費が膨らむこととなります。

 素屋根の大きな役割は、建物を作り上げていくための作業スペースとしての役割、そして工事中の本堂を雨や雪、風から保護する役割が挙げられます。素屋根は、屋根と軒先部分の床、そして外側のネットから構成されます。屋根にはクレーンが設置され、材料の出し入れに利用されます。軒先の床を利用して用材の組み立てや屋根葺きの作業を行います。

 このように外側のネットで囲まれた床を設けることで、宮大工さんをはじめここで働く人が安全に効率よく作業ができます。また工事中の本堂を素屋根で囲むことで、ケヤキ、チーク材が雨で濡れることを防ぎ、材木の性能を発揮させるために10年間自然乾燥させた状態を保つことができます。予算から追加支払額を捻出する素屋根の追加工事案です。加えて新築の納骨施設が委員会にて追加案として協議されています。この納骨堂でほぼ重要な建築関係事業の全体が網羅されます。


≪新本堂の「屋根」は?≫


 木造・コンクリート・鉄筋などの本堂の屋根葺材を見ますと、一番多いのは瓦葺き、次は銅板葺きになります。銅板葺きには、本瓦と同じような形状の瓦棒葺きと茅葺きと同じ形状の板葺きの2通りがあります。そのほかの材料にはガリバニューム鋼板、アルミ板、桧の皮を重ねた桧皮葺き等があります。特殊なものとしてはチタン構造も例としてあるが、あまりにも高価ですから採用されたニュースなどは全く聞くことはありません。

 称念寺の本堂の屋根材は『ステンレス』と決めました。板葺き形状のステン屋根は希に見かけることがあるが、本葺の形状のステンはまだ見聞きしたことはありません。屋根施工で「(株)カナメ」という著名な会社があります。東京・浅草寺本堂をチタンで施工したことでも知られる会社です。この社(名古屋支社)が拙寺の屋根を請け負って、ステンの「本瓦葺」を本邦初公開することとなりました。現に本堂屋根は瓦と銅板で7割以上施工されています。江戸時代以来、一度火事になると大きな被害が生じていました。その一因は住まいの屋根が「板」で葺かれていたからです。そこで考えだされたのが、不燃で施工性の良い「桟瓦」が生まれ現在までも住宅等に多く使われています。

 計画段階で耐震について検討した時点から屋根を軽減するとした結果、設計士は軽重量のステン本葺き屋根を計画しました。試作等を経て(株)カナメが新たにチャレンジしたなか「ステン本葺」が誕生しました。


≪鬼瓦=駿馬・カンタカ≫

 馬とお釈迦様。仏教のすべてがここから始まりました。カンタカ。釈尊の迷いを断ち切った聡明な駿馬。お釈迦様は29歳の時に出家を決意されましたが、愛する妻子との別れに決意が揺らいでいました。その時、愛馬カンタカが高らかな蹄の音を立てて、出家を促しました。我に返ったお釈迦様は、ついに出家の一大決心をされました。カンタカがいなければお釈迦様は出家せず、仏教も存在していなかったかもしれないのです。

 新本堂の鬼瓦は、破風上に棟の両側には「カンタカ像」が載せられます。近年、彫刻や塑造の題材に取り上げられ、カンタカがよく知られるようになったことから、一般でいう鬼瓦はカンタカで表現しようと屋根プランの中で助言を受けながら設置を決めました。カンタカは重量を軽減することで、瓦でなくFRPの製品を特注します。


◎お取越の季節

 宗祖の命日が11月28日。宗祖への敬慕のお詣りが寺での行事=報恩講、その家庭版がお取越です。例年秋から12月まで、門徒の家庭では個々に「お取越」を大切に勤め、「正信偈・念仏・和讃」を一緒に唱和してきた習わしがあります。今年も順次ご案内させていただきます。日時をお知らせする地区が6割、その他は希望される日時にお伺いし、お勤めさせていただきます。






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2013年9月号

閑話:法務外の時間
発行所
真宗大谷派 称念寺
発行人 住職 伊勢徳