寺報 清風











 境内でつくつく法師や虫の鳴き声も聞こえ始め、涼風に秋の気配が肌身で感じられる。朝夕元気に鳴いていたセミ達も、懸命に生きたその命を終えていったことだ。季節の変わり目に過ぎ去った時間を想い、「生死一如」私自身も限りある命を生きているのだ、と思うようになった。最近は「どうせ死ぬから」などと都合に合わないことは考えず、前向きで明るい姿勢が良い生き方だと考える人が多い。明日をも知れぬ無常の身の厳粛な事実にこそ、今を生きることの尊さと感動を見出した多くの先達も忘れられつつあるのだろう。

 夏休み中に、妻の代わりに一番下の娘を徳風保育園に送ることがあった。到着すると、年少組に入り水筒をカゴに入れ鞄を掛けたりし、全体保育が始まる朝9時までは自由時間である。幼児たちは先生と遊び、友達と遊具で遊ぶ。子を預け私は寺務所へと向かうが、その際に大泣きする。まだ4歳で毎晩母親としか寝ない子だが、色々な体験もしっかり言葉で伝えられるようになった。しかし足にしがみつき泣き始めると、「どうしたの」と聞いても「大丈夫だよ」と諭しても、返事もせず収まらない。最後には私も困りそのまま先生に任せてしまい、その場を離れるということが続いた。

 現場で保育士としてパートをしている妻に報告すると、もっと子供を理解すべきとのこと。したい事、遊びたい友達、約束など子供なりの思いがあり、私が耳を傾け支えるのだ、と。次の日、言われた通りに「今日は誰と遊ぶかな」と丁寧に聞くと、担任の先生がいいと言うので連れて行くと、飛び跳ねて喜びながら私を見送った。つい先日に同じ先生の所へ連れて行った泣顔との違いに私は大変驚いた。また違う日には、男の子の友達のところに遊びに行き、お互い笑顔で別れた。

 英語で理解するという言葉は「understand」と書く。その原義は、「under」つまり下や間に「stand」立つとも考えられる。確かに幼児の気持ちを知るには、身長差のある私がしゃがみ言葉を聞く。それは「忙しいから」という上からの目線でなく、「あなたはどういう気持ちでいるのか」と共感しようとする態度である。対等の関係性において自分の居場所が与えられ、そして「今、私を理解してくれる大切な人がいる」という気持ちが、子供の大きな生きる力になったのだ。しかし私は、忙しいから、泣かれると面倒だから、他の子も遊んでいるからと、いつの間にか都合を我が子に押し付けていたのだろう。日々、子供ながらに期待も不安も違うのに、一方的にサッサと片付けようとするばかりであった。

 冷暖房に選択、電話、調理、風呂、娯楽までもスイッチ一つで操作できる便利で快適な時代社会となり、私達の都合は肯定され助長するばかりである。しかし相手が機械でなく人間となった途端に、思い通りにならず様々な問題が露呈する。昨今の鬱病の多くも、その原因は人間関係にあるとも聞く。各々が自分らしく生きるのだが、どれほど正しく生きても人は必ず間違い、その問題は他の人を通して知らされる。その時は少し立ち止まり、自分だけが正しいということは有り得ないと認めていく歩みが大切であろう。

 私達の自我は、地球が回っているのに「太陽が昇る」と捉え、自らが間違っているとは感覚しない。日頃から、自分中心に暑いだの寒いだの、善だの悪だの評価ばかりしている。夫婦の口喧嘩でも、お互いがその違いを認めず、価値観を押し付けあい、自分だけの都合を通そうとする。必ず自身が正論に立ち相手に教えてやろうと、自らを立てようとする根本的な人間のあり方である。どれだけ論理的、体験的、あるいは科学的に自分の意見が正しくとも、その確固たる自信や間違いないとの思いがあればある程、その人をいよいよ「無智」であると知らしめるはたらきが「ほとけさま」と呼ばれ大切にされてきた。

よきことをしたるが、わろきことあり。わろき事をしたるが、よき事あり。よき事をしても、われは法儀に付きてよき事をしたると思い、われ、と云う事あれば、わろきなり。 『蓮如上人御一代記聞書』

 全国各地の災害に可哀想だと同情すると同時に、多くの方々が「この辺りは無事で良かった。有り難い」と感謝の気持ちを言葉にされる。吟味してみると「ああはなりたくない」という煩悩を満足させ、より不幸な人と比較して自分の幸福を確認する残酷な言葉である。傷んだ心は本当だが所詮は他人事、災害のニュースも気分が変わればチャンネルひとつで変更し、悲しみの共有や継続などありもしない。逆も然り、他人の喜びは比較のなか自身の腹立ちともなる。自我に気づかず常に自分が助かろうと、上下や優劣、善悪に迷い続ける凡夫の姿だ。真実の宗教とは、霊魂や前世などのないものが見えるのでなく、私達の愚かさや過ちなど、本当はあるのに見えていないものが見えるものである。

 自分だけの世界ではどこまでも、本当の意味で人と出遇うことが成り立たない、と阿弥陀の本願は言い当てている。自己中心的な自身のあり方を痛み懺悔する気持ちもないほどの悪人である私が、そのまま救われるのだと親鸞聖人はいただかれた。自らの都合や煩悩が全肯定されるこの時代に、徹頭徹尾思い通りに生きようとする私の闇を照らすお念仏の教えに聞き続けていきたい。

[文章 若院]



≪五劫思惟像について≫

 本堂に設置される新「収骨室」のご本尊とする仏像は、阿弥陀如来の修行中での容姿を彫刻した『五劫思惟菩薩像』とした。この新作の像は、仏師・松原瑞法、松原瑞雲(大阪市玉造に在)さん父子に最終調整としての加刃を依頼し完了しました。珍しいこの像は数か所に残存していますが、お姿がまちまち。中でも有名なものは東大寺五劫院・奈良十輪寺の像です。

 五劫という長い間、剃髪をなさらなかった頭部、そのアフロ菩薩像の異型に驚きを禁じえません。しかし大谷派寺院に相応しい五劫思惟菩薩像のお姿はどうあるべきかと選び決めた表現に注目あれ。まずはこのようなお姿となりました(写真掲載)。仕上げについて、螺髪(ラホツ)は群青色の岩料で、御身は古代仕上げでなどなどアドバイスを頂き、検討しているところです。


≪絵と讃、北大路紅女≫

 朝ドラ「花子とアン」、主人公より注目を集めるのが「葉山蓮子」そのモデルが歌人・柳原白蓮です。大正三大美女の一人と言われた。その子息に嫁した嫁が「北大路紅女」。自由画壇副理事長として活躍の傍ら、名古屋徳川美術館にて香道具、香木の研究をされている。南画の部門では著名な画家。京・画商がある日、寺に持ち込んだ。ねちっこい売り込みに根負けした。紅女の絵は安価で決まり「まくり=未表装もの」を置いていった。

「讃」 はちす葉の にごりにしまぬ 心もて
     なにかは露を 玉とあざむく


≪お取越と報恩講≫ 

 秋になって全国各地で、お取越・ご引上という名の行事が勤められます。これは宗祖・親鸞聖人のご命日の仏事で、門徒の各家庭で勤められます。近年、年忌法要や祥月法要など簡略される傾向にあります。しかしこれぞ真宗門徒の確かめが「お取越」のご縁です。

 拙寺では、寺から「お取越」の日時をお知らせする地区と、寺に申込いただいてお伺いする地区があります。10月中旬から始め12月末に終了。寺に於いての親鸞聖人のご命日のお勤めは「報恩講」で、11月23日に厳修します。


≪新本堂 基礎工事について≫

 基礎工事は10月15日に再開されます。もともと6月下旬にはRC打設を終える工程表であったが、諸事情で徐々に遅延されて猛暑の時期まで入り込みました。よって肝心である基礎工事(RC打設)は涼しくなる秋まで順延し、夏季の間は中止することとしました。来月10月中旬には再始動します。


≪境内の寄進者の掲示について≫

 南駐車場の垣根に沿って寄進者名を印字した札を掲げ始めました。ところが印刷段階で誤記されたものが多々ありました。それらは業者に返却し、再度訂正されて届いた順に掲載するとしました。


≪寄付金の集計にあたって≫

 本堂再建にあたって5年間の募財は、約2年を経過しました。目標額の94.5%までが着帳され、90%までご上納をいただきました。厚く御礼申し上げます。特に10年間にわたってという長い期間に、また5年間に分割でお届けくださる方々が見受けられます。そのお志の深意に対して敬伏いたします。新本堂・再建事業に、改めてご理解ご支援たまわりたいと存じます。


 名月や 今朝見た人に 行き違い  与謝野蕪村







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2014年9月号

自らの都合の世界
発行所
真宗大谷派 称念寺
発行人 住職 伊勢徳