寺報 清風






         雲の中の楞伽山(書き下ろし版)


 盆が過ぎ久しぶりに一人旅をした。長年行きたくとも行けなかったインドの南西に浮かぶ島、インド洋の真珠・セイロン島へ行くことにした。セイロン島(現スリランカ)は紀元前3世紀のシンハラ仏教王国以後、ビルマやタイへ伝わった南伝仏教の源流の地である。7世紀に『西遊記』の三蔵法師玄奘がインドへと渡る遥か前、399年には中国の僧・法顕が経典の原典を求め、インドを経てセイロン島に辿り着き『仏国記』を著している。土着のシンハラ人(スリランカ人口の約7割を占める)は、古来より仏教を国教として大切にし、現在でも仏教が人々の生活の中心にある場所だ。

 セイロン島の古都キャンディには、16世紀にブッダ釈尊の遺歯が迎えられ建立された寺が、かの有名な仏歯寺である。まずは仏歯寺を参詣し、その奥の丘陵地帯に鎮座する楞伽山(リョウガセン)を目指すことにした。親鸞聖人が著した『正信偈』には「釈迦如来楞伽山」という文言がある。かつて釈尊が後の高僧・龍樹が人々を教えに導くと語られた山である。とはいえ、教学者に聞いても、仏教書籍やインターネットを自分で色々調べても「スリランカにある山らしい」というだけで、私が勝手にこの山こそが楞伽山であろうと憶測して行ったに過ぎない。

 バックパックを担ぎ知立駅からバスに乗り、中部国際空港から上海へ飛び、上海在住のオーストラリア人の親友と再会する。これまでは浦東空港からは、リニアで都心へ移動していたが、この日は彼はウーバーで迎えに来てくれていた。上海ではすでにタクシーの時代は終焉し、スマホを使いより安く、希望の時間と場所でよりグレードの高い個人ハイヤーをチャーターできるウーバーばかりだという。元々、シドニー工科大学の同級生で、ビジネスを始めようと一緒に上海に渡った彼は、会う度に従業員が増え、ちょうどこの日がBMWX5の納車日であったが遅れていたそうだ。貧乏な時代も一緒に暮らした20年来の友人である彼は私の味覚を熟知しており、早速私の大好物である中国で最も安い「葱油麺」を食べに行く。

 発展を続ける5年ぶりの上海では驚くことが多かった。私が以前、上海に住んでいた頃、買ったばかりの自転車を次の日に盗まれて悔しい思いをしたのだが、今では街角のいたるところに乗り入れ乗り捨て自由のレンタル自転車が並んでいる。しかも複数社あり、殆ど無料である(億単位の巨大な市場ではアプリの広告料だけで莫大な利益が会社に転がり込む)。混雑していた汚い麺屋では、かつて2元(約30円)だった葱油麺の値段が7元になっていた。夜には酒を酌み交わし中華料理を色々食べたが、蛇の唐揚げが最も美味かった。中指ほどにぶつ切りされた蛇の肉は固く、両手で背骨の両端を持ち肋肉を歯でこそげ落すように食べ尽くした。毎年のように倍々で不動産の価値が上がり続け今では2億円ほどとなった、上海の新天地の脇にある彼のマンションに泊めてもらった。

 
 友人の部屋からの上海の眺め     街中にたくさん並ぶレンタル自転車

 翌日に空港に戻り、東方航空の飛行機でスリランカの最大都市コロンボへと移動した。8時の到着予定が、悪天候のため夜10時となり、初日分だけネットで予約した宿まで移動する。マンションの最上階をリフォームされた宿のロビーには、オープンテラスがあり、そこで唯一人ビールを飲んでいたアラブ人アブファットと知り合う。私は昨年、中近東にも赴いたのですぐに打ち解け、旅行を終え翌日に帰国するという彼と飲みに出かけた。まだセイロン島に到着したばかりの私は何も知らず行く先は彼に任せたが、トゥクトゥクの運転手も彼も、11時過ぎには街中もビーチ沿いにもどこにも開いている店が見つけられない。バーは諦めコロンボ市内のナイトクラブに行ったが、こうしてスリランカの夜は早い(10時閉店)こと、旅人の足トゥクトゥクの相場など基本的なことを教えてもらった。ちなみにアブファットは国の友人と旅行していたが、その友人は蚊に刺されマラリアにかかり1週間ずっと寝込んでいた。

 私の旅の基本は、地元の人々に尋ね、移動して安宿を探し、現地の人々と過ごすことだ。今回の旅行中、複数家族で国内旅行をしていた人達と夕食を共にし、日本の歌を歌う条件で酒を飲ませてもらったのだが、団体の一人で、ロシアの大学で医学を学ぶ一人息子のいる母親から「私達の旅行に一緒に加わらないか」と誘われたことが嬉しかった。一人旅でなければ地元の人々と知り合う機会は少なく、また同じく一人旅をする外国人の旅人となるべく距離を置くことが肝要だ。食べ物にしても、街の危険なエリアにしても、当たり前だがガイドブックやスマホの情報はほとんど役に立たない。近年、常にスマホを片手に情報を見て、世界中のことを理解したような気持ちでいる人が大変多いが、実際にその場所に身を置き、人と出会い、尋ねなければ何もわかっていないに等しいという基本的なことすら忘れられている時代が私達が暮らす現代であろう。

 
  黄金海岸沿いを走る電車        ヒッカドゥワ・ビーチの夕焼け

 8年前に熾烈な内戦を終えたセイロン島での毎朝は、一杯の極上の甘い紅茶から始まる。さすがに有名なセイロンティーの原産地、特に一面の茶畑が広がる高地であるヌワラ・エリヤ周辺で栽培された世界一の茶葉は、高級ワインのように香り高く、またタンニンが多く含まれ渋みが強いのが特徴だ。田舎街の大きな建物は紅茶工場であることが多く、私はキャンディの郊外にあった工場で民族衣装を着た美人に案内してもらったのだが、茶葉のプレス、乾燥、発酵、そして再度乾燥、その後に振り分けされた茶葉には種類も多い。最高級のものはわずか1センチほどの新芽だけを選りすぐった金色、銀色の茶葉で、カフェインが含まれずタンニンとビタミンを多く含むものだ。もちろん日本人にも馴染みの深い緑茶も栽培されるが、主には紅茶で、色もオレンジ色から焦げ茶に近いものまで種類も多く、たかが紅茶と侮れない。毎朝はもとより、昼にも夜にもコーヒーでなく紅茶ばかり飲んでいた。基本的にはブラックティーかミルクティーで嗜むもので共に甘いが、ポットで頼めばそのままの味も楽しむことができる。

 キャンディへは電車で移動した。エアコン付きで座席指定の特別車であったが料金は500ルピー(約350円)、快適な列車旅である。駅からはトゥクトゥクを捕まえ4軒ほど見て周るが、なにせ観光地なので丘の上の湖と仏歯寺が見渡せるバルコニー付きの部屋はなんと1泊7000円もする。奥まった1泊1500円の宿は清潔感もなくひっそりと重い感じがした。やむなく徒歩で街に出れる湖畔の宿にチェックイン、仕方なく2泊で6000円も支払う。早速街に出てバーを探していると、街角に立っていた地元民クマンと知り合う。観光客の行く小奇麗な居酒屋では、ビールの大瓶が800ルピー(約600円)もするが、彼と行った漆黒の肌のスリランカ人の客しかいない地元のバール(日本でいうバー)では半額となる。いずれにせよ、インドの南にしては、物価がやけに高いと感じた。コロンボではベンツやBM、最新の日本車が所狭しと走っており、平均的な日本人よりよほど金持ちである。ちなみに多くの国民に評判の悪いスリランカ政府による関税のせいで、憧れのプリウスの新車は1000万円もする。面白いのは、スリランカ全土で日本人というだけで大変尊敬され、それは車や家電など製造業の躍進だけでなく、2004年のスマトラ島沖地震での津波被害に対して29億ルピーを支援した(世界中の国で最も多い額であった)ことも全国民が知っており、加えて同じ仏教徒だと言うと(面倒くさいので職業は僧侶と言わず教師とした)大変喜ばれ、どこへ行っても歓待された。10時には酒屋が閉まったので、丘の上のクマンの地元の村に場所を移し、野犬に囲まれながら彼の友人達と共に11時半頃まで国産の安酒アラック(ヤシ酒)を路上で飲んだ。

 次の日の朝、お湯の出ないシャワーで身を清め参詣の準備をしていると、開けていた窓枠に野猿が座っており驚いたが、部屋を荒らされると困るので優しく追い払った。以前カンボジアの密林で野猿の集団に喧嘩を売られ、若手のチンピラ猿共がはやし立てるなかボス猿が登場し焦ったことがあるが、旅では人間だけでなく野生動物にも気を付けなければならない。歩いても寺に行けるが宿の前の車道が渡れず、トゥクトゥクを捕まえた。運転手アニーもフロントガラスにブッダのシールが貼ってある敬虔な仏教徒で、キャンディの他の寺でも働いているという。仏歯寺に行くと彼が膝の破れた私のジーパンを見て「それではいけない」と近くの商店で腰巻を借りて丁寧に巻いてくれる。ガイド達が声を掛けてくるが、金もかかるし観光ではないので断った。靴を脱ぎ仏歯のある寺の中央まで行くと、朝の勤行時間を待っている老若男女で混雑していたが、たまたま空いた一人分の板の間に正座した。人々は合掌したり経を唱えており、私も数珠を出して勤行し合掌する。しばらく人々を眺めていると、白服の寺の給仕係が私を手招いた。彼は私の所作を見ており「日本から来た良い仏教徒だ」と笑顔で他の係員らに紹介してくれ、涼しい奥間で休憩させてもらい、献花用の香の良い純白の花と共に行列の先頭に入れてくれ、しっかりと仏陀の遺歯に手を合わすことができた。その後には仏歯の奥にある本尊の間に通され、住職と思われる高僧にも丁寧に紹介してくれた。スリランカとは「光り輝く国」を意味するが、それは日本人が土産に買い求める宝石類のことでなく、仏教を大切にしてきた人々が受け継いできた仏・法・僧の三宝のことなのであろう。アニーに頼み、キャンディ郊外のハーブの生い茂る昔からある村の先の丘上にあるランカティラカ寺院にも参詣させてもらった。

 
  仏歯に献花する参詣者達         借りた腰巻を付け仏歯寺参詣

 ブッダン・サラナン・ガッチャーミ
 ダンマン・サラナン・ガッチャーミ
 サンガン・サラナン・ガッチャーミ


※ 世界中の仏教徒の間で通じる三帰依のパーリ語版。ブッダ(仏)、ダルマ(教え)、サンガ(仲間)の三つの宝を大切にして生きていこうという呼びかけ

 アジアでは歩いて車道を渡るコツを掴めないと10分経っても渡れないことがあるが、この日の夕方キャンディ中心部のバスや車やトゥクトゥクが入り乱れる5車線の道路を渡った時に偶然一緒に渡った男性と、お互いの堂々とかつ安全に立ち止まりつつ前進する歩調が全く同じで不思議と心が通じ合う。道を渡り終えると声をかけられ、仕事があと10分で終わるというので、待ち合わせをして彼と飲みに行くことになった。タミル人のディリシャは地元の文化センターに勤める1歳年下で、しかも私と同じく女の子が3人いる。同世代ということもあり、様々な価値観を共有でき、またお互いの違いも学び合った。彼に連れられた街外れの静かなバーでは、近くのテーブルにやはり一人旅をする若者がおり「もし良かったら一緒に飲まないか」とそれぞれ声をかけ、ドイツ人の若者とアイルランド人の女の子と4人で飲むことになった。他の外国人旅行者は、白人だけ、あるいは同じ国の旅行者だけが集まっていることが多いが、人種が多様なほど話題も幅広く笑いが絶えない。結局4人で11時の閉店まで飲み、帰りはディリシャに送ってもらった。

 次の日に宿をチェックアウトしてキャンディ駅に切符を買いに行くと、座席がすでに満席で混み合った3等車での移動となった。もちろん特別車とは違いエアコンはないが、涼しい気温だけでなく風が気持ち良い。スリランカはアーユルヴェーダの国であり、多様な種類のハーブに恵まれた島だ。毎日食べるカレーの各種スパイスをはじめ、シナモン、アロエ、レモングラスといった有名どころから、カカオ、ペッパー、全く知らない植物の話も地元の人から聞かされた。肌の保湿、蚊よけ等も植物油が使われており、糖尿病から精力回復に至るまで自然の生薬が使用される。だから豊かな植物による風の香りがとても心地良いのだ。さらにキャンディから終着駅バドゥッラ間の、茶畑と美しい花々、湖と緑豊かな丘が続く桃源郷は、アジアで最も車窓が美しいと言われている。家族連れの子供達がトンネルに入る度に叫び声をあげ、私も無邪気に開いたままのドアから存分に身を乗り出して楽しんだ。3等車には車内アナウンスなどないので、信用できそうなオッサンに着いたら教えてくれとお願いしておき、ハットン駅で降りた外人は私一人であった。シーズンオフなのでバスは運休、トゥクトゥクで1時間かけ、絶景の湖の先にある聖山スリー・パーダの麓の村ナラターニへと向かった。

 
  南国の花々は色彩が豊かだ         美しい滝がそこかしこにある

 
 ナラターニの安宿(1泊1300円)   安宿のオープンエアの絶景レストラン

 シーズンオフのナラターニの村はひっそりとしており、日中は雨が降り続けた。ふと携帯電話の電源を入れてみると、ローミングをしてこんな山奥で電波がしっかり立っていたことに時代を感じた。聞くとこの3日間は雨が降り続け、少し止んだ夕方に登山道の入り口を確認しに行く。野犬や野豚が多いが気にしないことにした。その途中に、悟りを開いたような、遠くを見つめるような眼をした、年季の入った緋色の僧衣をまとった裸足の外人僧侶に声をかけた。オーストリア出身の白人僧侶で、私が『楞伽経』を知っているか聞くとすぐ「あのマハヤナ(大乗)の経典か、知っている」と答える。楞伽とはそもそもランカの音訳で、この経典の冒頭に、あるとき竜王宮で7日間の説法を終えた釈尊が大海から姿を現し、スリランカの山上にある楞伽城に赴いて教えを説いたという記述がある。法然上人は『阿弥陀経釈』に於いて『楞伽経』の龍樹菩薩の解釈を引用し、また親鸞聖人も『正信偈』、『和讃』において釈尊の予言した龍樹の功績を讃嘆している。スリランカの仏教徒は、かつて釈尊がセイロン島を訪れた時に残された足跡が、聖山スリー・パーダの山上にあると信じ、現在でも巡礼する人々が絶えない。私の出会ったスリランカ人の多くも、4回だとか7回だとか、何度もこの山を巡礼していた。いずれにせよ、旅の前にどうしても所在がわからなかった楞伽山の麓に来ているのだと外人僧に教えられ、安堵すると共に少し興奮した。

 カメラやパスポートなどは宿に残し、懐中電灯、ナイフ、水など最低限の装備を持ち、翌日の早朝4時に宿を出た。辺りは真っ暗闇だが雨は止んでおり、静まり返ったナラターニの村を抜け小川を渡り登山道へと入る。しばらく行くと少し明かりのついた涅槃仏に迎えられ、合掌だけして先を急ぐ。1時間ほど歩き続け唯一開いていた小汚い茶屋に入り、ミルクティーを飲み糖分を補給した。店のオヤジが言うには、今年は5月から4ヶ月間雨が降り続けたが今日のあんたはラッキーだと言う。だが、山の天気は変わりやすい。一服してすぐに出掛け山道の傾斜が急になった6時頃、夜明けの薄明りに見えてきた周囲は一面の霧であった。風が強く小雨が降るなか簡易カッパを着て、転倒しないよう一人孤独に登り続ける。転んで怪我をしたり、足を挫いてしまったらそこで終わりだ。山の標高は2230メートルなので少し舐めていたが、これが辛く最後の30分はまさに地獄の山行であった。私は登山好きではないので、いつも通り足を鉄板が守るエンジニア・ブーツを履いていたのだが、この靴の重さが私を苦しめた。

 ようやく山頂に着くと、全く人気はない。祠の前では、前日に出会った外人僧が弟子一人を連れシンハラ人の門徒2人とお勤めをしていた。私もその後ろに立ち合掌していると、心地良い旋律の小乗仏教の読経が胸を打ち目頭が熱くなった。20分ほどのお勤めが終わり、私も彼らの邪魔にならないように自分のお勤めを済ませた。外人僧には、祠の27フィート(約8メートル)下に釈迦の足跡があるのだとも教えてもらった。しばらくして外人僧は裸足のまま、更に道の険しい反対側のラトゥナプラ村へと消えていった。下りは登り以上にキツかったけれど、巨大な岩肌から流れる見事な滝に心が癒される。天気は青空が広がる快晴であったが、何度振り返っても楞伽山の山頂は雲の中にあり続けた。この山から七高僧の歴史が生まれ、親鸞を通して現代を生きる私にまで教えが届いたのだと胸に刻んだ。

 
  憔悴しきった私と元気なルワン        エッラの宿での朝の紅茶

 クタクタに疲れ、宿をチェックアウトしたは良いが足が使い物にならない。エッラまで移動したかったが、電車で8時間、バスで6時間、昨日のトゥクトゥクの気の良い運転手ルワンが「俺なら4時間で連れて行ってやる」と息を巻く。贅沢だが自分への褒美として4000円で手を打ち、彼の家の妻と子供達に会ったり、サワラのカレーを一緒に食べたり、ヌワラ・エリヤを眺めながら、延々とカーブの続く約150キロの道のりをトゥクトゥクで移動した。これは通常であれば狂気の沙汰だが、不安定な乗り物での的確なインアンドアウトやブレーキなど前日に確認していたので、安心して身を任せた。エッラでは丘の上の宿の4階の部屋まで荷物を持ってくれたルワンに、私のウェルカム・ティーと子供達への飴玉をあげ、外人達が騒いでいる街にも出かけず泥のように眠った。次の日は棒状になった足を引き摺り、更に奥地の岩壁にある石仏ブドゥルワーガラにも参詣した。ここから先が現役バックパッカーの真骨頂、どのガイドブックにも情報のない、といっても旅人用の宿など何処にもないので当たり前だが、辺境の村タナマルウィラへと向かった。

 
 ブドゥルワーガラの大乗仏・菩薩        黄金海岸にて骨休め

 
  安宿の屋外シャワー処          漁師町マータラの海に浮かぶ寺

 
  頭や身体を乗り出し放題の列車      本日もゴキゲンなライス&カリー


[文章 若院]








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真宗大谷派 称念寺
発行人 住職 伊勢徳