寺報 清風






         ほんとうの自分


 先日、京都の東本願寺での勤務中に、仏教讃歌『みほとけは』についてお話をするご縁があった。全国より集った門徒衆、修練中の若手僧侶、そして小学生、それぞれが約50名ずつ、マイクを持った私の前にいた。その歌詞は、「みほとけは、まなこをとじて、みなよべば、さやかにいます、わがまえに」とある。仏さまは、自分中心の眼を閉じて、南無阿弥陀仏とその名を呼べば、私の前に確かにおられます、という意味だ。私は法事でも枕経でも、その場に子供がいれば、なるべく子供に話し掛けるようにしている。大人にも同じことを伝えるので、他の大人は子供への話を聞けばよいからだ。

 最初に、正しい教えは、幽霊や神様などないものが見えるのでなく、大事なものがあるのに見えていないことを教えられるのだ、と伝えた。快晴であったその日は、本願寺の境内を散歩した際、澄み切った青い空と真っ白な雲が美しく見とれていた。宿泊施設に戻ってから、ふと空の向こうには宇宙があったと気がついた。しかし、一番前に座っていた賢い小学生に「なんや普通の話やん」と大きな声で言われてしまい、後ろの方から失笑が聞こえた。しめたと私は、その子に向き合った。「君、生きてるやろ」、「うん」、「生きてるから命があるやろ」、「うん」、「でも命は見えんやろ。大事ないのちが見えないんだよね」と。

 二泊三日で本願寺に来ていた他の子供達にも、「夜、寂しくてないてないかな。お友達と楽しくやってるかな。そういう親の心配や願いも見えないでしょう」と話し掛けた。子供達が素直に聴いてくれていたことが有り難かった。私も今回京都に来て法話を聞き、色々な人達と出会い語り合い、気付かされた。それは「自分以外の人達にも様々な気持ちがあること」と「知らないで人を傷つける自分のワガママな心」が見えたことだった。仏さまは人間に、見えない大事なことを気付かせるはたらきなので、私にも見えたということは仏さまがすぐ近くにいてくれた。そういうことが簡潔に表現され心が込められた歌なのだ、と子供達に引き出され語らされた。

 覚るということは 迷いの事実を知ること以外にない  曽我量深

 最近、非常に気にしていたことがあった。全国的に有名なタレント僧侶や地元で末寺を回り活躍する説教師にも、他力他力と詠いながら、感謝の心を大切にとか人生の苦しみを引き受けよう、自己中心の自分が教えられたら修正できるといった、耳障りの良い理想的な生き方のテクニックを結論とする自力の法話が多い。また社会問題を扱えば常に批判は外に向き、まずありきの正義だけが教義に同調している。私自身もアメリカでの開教使時代には、生活の糧として金を貰い話す「いい話」や「私の主張」の材料を経典から探した。当時、小賢しい自分にも辟易していたが、適当な人生の助言など聴く人に失礼であっただけでなく、振り返るたびに、すでに亡くなった人もいるので取り返しもつかず恐れ多い。最も辛かったのは、「信心ひとつ」に頷けないまま聞法せず読経ばかり続けることで、それが帰国した一番の理由であった。今、自分ということを通した生活感覚では、間違いなく間違いは絶えない。笑顔で正しい人だらけの教団などカルトより怖い。大事なことが見えないから教えを聴き、聞こえなければ確かに生きることができないのだ。

 世間で騒がれているパワハラでも、どの組織、どの夫婦や親子にも、同じ関係性の課題はある。誰しも、経験したり学んだりした分、また歳を取るだけ尊大となり傲慢が始まる。私物化が危ない。だが名利の太山から人を見下すのは意外なほど気分が良い。また人は信念と熱意があることほど、自分の正しさで周囲を圧倒するので厄介だ。私の妻は、子供に対し四六時中怒ったり押し付けたり、子供には子供の生き方があると感じながら、自己嫌悪し反省しながらも、そうとしか生きられないと私に語ったことがある。私も同じだと感じた。昔も今も、自分と違うものに腹を立てている。傲慢だけでなく不登校やいじめ、依存や暴力でも、それ以外に自分はないのだから、「ダメや」とか「直そう」という自力の話はできない人の悲嘆と背景を見失う。大乗は翻って「生死即涅槃(正信偈)」、汚泥に咲く蓮のように、迷い苦悩する我が身こそが覚りの内容であったことを七高僧が明らかにされた。だからこそ親鸞聖人は厳しく、流罪となってなお同じ仏教の教えでも「邪道」だと後世に残されている。

 家族が亡くなると、共に生きた日々を振り返り「もっと何かしてあげれば良かった」、「二度とない死すべき命であった」と、過去の自分のあり方を見つめ直す人も多い。生きている時には気付けなかった一大事を、故人から教えられる。だから私達は成仏した、仏さまの一人として、亡き人に手を合わせる。これも昔は、「生きているうちに出遇えな意味ないやないか」と長い間頷けなかったが、縁に依る。それらは不思議なことに、深く心に刻まれた気付きだが、反省してもまた同じ生き方を繰り返す。では意味がないのかというと、それは違う。「ご縁のままに自分にはできなかった」という想いを大切にしながら、また各々の生活を歩みゆく。僧伽(念仏する仲間)は三宝の一つであり、間違ったら先達に必ず教えられる。念仏して自我を教えられた者は、煩悩を捨て善人になるのでなく、いつも自我を生きざるを得ない自分の人生とその意義を深くいただいていく。そこに初めて、世間道が転ぜられ、目の前の人と真向かいに出遇うことができる世界が開かれる。仏教の教えは、ほんとうの自分を生きる者によく響く。

[文章 若院]


欄外の言葉

 自分にとっての右は、目の前の人の左なんや  三島清圓
 
 ああ、元々間に合わんことをまたやっとった  高柳正裕


≪お取越のご案内≫

 10月中旬より長篠町、山屋敷町をはじめ、順次お取越のお勤めが始まります。真宗門徒として宗祖親鸞聖人のご命日を縁とする、1年のうち最も大切な法要「報恩講」の家庭版です。是非ともご家族そろってご一緒にお勤めください。

 世話方さんに、担当地区のご案内をお届けしていただいています。また例年のご案内が無い方も、お寺に電話いただければ法要の予定をさせていただきます。


≪台風21号の被害≫
≪本堂の御本尊修復≫

 6月13日、お移徒法要をお勤めして後、ご本尊は截金(キリガネ)細工の装飾加工をするため、截金師・龍香(田中典子)さんの作業場にお届けしました。約100日間の細工修復で彼岸法要を目途に進行中。出来上がり状況をお尋ねしたところ、あまりに古い仏像であることから大層手間取っているとのこと。

 締め切り期日が彼岸法要前であったが、やや遅れることも承諾しました。現在は会館の阿弥陀仏像を本堂の仮本尊として安置いたしています。果たして9月24日の彼岸法要のおあさじにて「お入仏法要」が勤められるや否や?





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発行所
真宗大谷派 称念寺
発行人 住職 伊勢徳