寺報 清風







            弥陀先手の消去法


 これまで幾多の書籍を読み溜めたが、読書はノンフィクションを中心に乱読し続けてきた。しかし、ときに愛すべき秀逸な作家を知ると立ち止まり、その全著を読破することがある。その一人である、海外の文化や酒食に性、ベトナム戦争、釣りや阿片にまで精通した開高健が、美食文化論と題し「ぶどう酒であろうと、コニャックであろうと、何であれ、その良否を知る一つの方法は、日頃から安物を飲みつけることである。たまに極上品を飲むと落差がクッキリとわかる」という名言を残した。特にワイン文化では目隠しで飲み、その原産国と原種、銘柄、年号はもちろん何村、何城の丘の畑の方角まで特定する達人がいる。その味に香り、舌触りと残り香、風味、色や輝き、喉越し等あらゆる感覚と記憶を研ぎ澄まし、生涯と多大な資金を費やして極めるワイン道に於いて「不味い安酒を多く飲め」と喝破した氏の洞察は、成る程これは道理だと直感し私の脳裏に刻まれた。出典の記憶は定かでないが、「知の巨人」と称される作家の立花隆が、愛欲や金、怨恨による事件や卑しい醜聞を扱う大衆紙の三面記事ばかり愛読するおばちゃん達は、哲学書を読む知識人より人生の機微や人間の本質を熟知するのだと論じていたことも通底する。

 ところで学生時代に、試験の解答法の基礎テクニックとして、最も信頼すべきは消去法であった。消去法とは、複数の選択肢から可能性の低いものを順次除去し、最後に残ったものに解答を見出す方法である。例えば「世界で最も面積の大きい国は」という設問に、日本、イギリス、アメリカ、ロシアという選択肢があるとする。四択全体を見て一つの答えを探すのでなく、まず日本とイギリスを消去し、残りの二択に絞り正答であるロシアを導き出すのだ。こと宗教に関しては、基本的に逆の論法であった。どの宗教もまず真実ありき、それが正しい教えだと広布され、信者が各々の人生の拠り所として生きていく。つまり宗教を基礎から学ぶ時、その宗教の中心とする教義とは何か、真実たらしめる教えとは何か、そう始めるのが順序である。私自身、浄土真宗に「念仏であらゆる人が救われる」という根幹があり、では念仏とは何か、救われるとは具体的にどういう状態を指すのか、そうした課題を持ちつつ経典や親鸞の著作を学習し始めた。だがこのことが長期に亘る迷いへの入口であった。納得できぬまま浄土とは何か、行くのは生前か死後か。結局仏教とは仏の教えだから、仏がわからねば如何に教えがわかろう。仏陀とは覚者、目覚めた人だから、悟りを開いた人はどこにいるのかと探しもした。また衆生を救うのは阿弥陀仏だから、そも如来の存在証明ができなければ救済が成立しないと、中国の善導を含む過去の高僧もそこに迷ったのだと後に教えられた。

 そのなかで浄土真宗の先達は大経の「汝自ら当に知るべし」を解し「自分の身体で実験せよ」と示唆された。そこで私が憶うのは「ずっと苦労して生きてきた、その生涯で最も大切なことは何か」という座右の銘、人生訓の結論ともいえる命題である。やはり金が大事だという世相だが、釈迦は生まれながらに得た王位を捨て出家されている。高価なものを無理して買い、すぐ飽き満足に至らなかった経験は誰しもあるだろう。金持ちも病気になるし、愛も尊敬も買えず不遇な死を遂げたのは紀州のドンファンだけでない。金でないなら健康か、人は誰しも死ぬので最期まで健康な人はいない。そもそも誕生から健康でない子供が懸命に生きる尊さを前に「健康が一番」などという愚説はない。先日も、幼馴染の友人に電話したら「癌になり胃を3分の2切り取った」と、想いに反し失われるのが健康だから、健康を頼りに生きれば絶望に終えよう。大事なことが血液型や星座、名前の字画などでないことはわかる。頑張ることも肝心だが、頑張っても人間関係や老病死も解決できない。趣味といっても、足が悪くなれば旅行もゴルフもなく、目が悪くなれば読書もできない。楽しく生きるにも、何の為に生きるか考えた結果、その目的が楽しまな損という我が身の享楽では悲しすぎる。老い先が短いからと無責任に、年金でカラオケにグランドゴルフに励むばかりの老人が孫の世代に尊敬されるはずもない。また大事な家族は共になれず、とにかく苦悩や問題だらけだし、友情も約束も脆いものだ。グルメも好きに食べれば健康を害し、迷惑をかけたくないとしても、都合も名利も超越し迷惑かけずに生きてきたと自認する心こそ貧しい。よく耳にする感謝も災害時など、不幸を見つけ比較し私は良かったと喜ぶだけで、縁が変われば愚痴となる。優しさから「空いた時間にボランティアでもやってやるか」と人様の為、これも歴史に残ったマザー・テレサとは根本から違う。間違いなく命は尊いとしてきたが、先日ある先輩に「寺の境内の雑草を取ってるでしょ」と指摘され、都合の良い命だけを尊ぶ分別心に気付かされた。

 40年生きても80年生きても、これこそ真実だと言えるものが自力で一つも獲得できないのが事実である。あるのは拭い去れない自尊心と虚栄心に塗れ、ときに謙虚なフリをする、自分の居場所を守る処世術くらいだ。自我のおかげで、全て「自分さえ良ければ」という罪悪で生きたことすら頷けないのが有り難い。もちろん何を信じ大事にするかはひとそれぞれ自由だが、真宗の門徒はそこに共通の知見を抱く。それが聖徳太子の言葉「世間虚仮唯仏是真」という明示である。世間とは娑婆を生きる私そのもの、温暖化でも自分だけはクーラーを止めず、牛豚の命に感謝なく邪魔なゴキブリは殺し、安価な外国人労働者を現代のカースト制度に呼び込む、その驕慢な相を痛むことのない人間の世界を指す。濁世間を織り成す人間の答えが全て偽物だから、最後に残った出世間つまり仏の教えが本物だという消去法でない。非なるものを真とする私をこそ非と教えしめることを真という。思慮の先には真をも我が物とする、選択肢の全てを虚仮不実だと教えられた事実には、まず真実のはたらきとしての弥陀の本願が先にあり、その念仏一つを最も肝要とし、共に歩み合う仏道が親鸞聖人の人生全体に於いて明らかにされたのであろう。

[文章 若院]


欄外の言葉

 何故人間同士が殺し合うのか、これは遠くでなく身近な問題である 藤本愛吉
 
 これまでの釈迦中心の仏教が、弥陀中心の仏教に根源化される 池田勇諦


≪若院の伝道掲示板≫
≪住職リハビリ日記 Vol.4≫ 

 7月28日(日)入院。翌29日(月)人工肛門除去の手術し、ICU室に移動。30日(火)に一般病室に移される。24時間点滴が続く。激しい痛みがあるにもかかわらず、排尿時には自力でトイレを済ませるよう促される。

 7月31日(水)MAX、身体の背中・膀胱・胸・腹部に5本の管・注射針が装着されていた。1日ごとに1本が抜かれていった。廊下で歩行訓練するように指示を受ける。8月1日(木)重湯をようやくにして口にする。翌日三分粥を少々。

 8月4日(日)点滴終了、五分粥、おかずあり。少量の便が出る。尿は3時間おきにトイレに行く。術後が順調であると知らされた。夜間に歩行訓練に励む。8月6日(原爆投下74年)、前日・前々日の排便の様子から、翌日に退院。以後、自宅での療養を告げられた。

 昨年末の入院期間は、24日間であったが、今回は11日間。計8ヵ月間、大腸と肛門は休止していた。さて人工肛門(ストーマ)閉鎖後は?復活するかは個々違うと聞く。1年経過しても“紙おむつ”を付け、排便に支障がある人もあると聞く。焦らず、食生活を整えていく。“おむつ”装着から、復活に向けての再スタートだ。病床の片隅に虫かごがある。鈴虫と蟋蟀の餌やりが日課の一つ。13~16日はお盆、少しの法務を勤めるも排便は不調。

 8月20日(火)名鉄デパートでの「棟方志功・作品展」鑑賞にでかける。21日、上海から王さん家族一同、見舞いに来られた。深謝、小学5年生の子、日本語を習得しての、激励の言葉をいただいた。この頃より、外出時のみ“紙おむつ”を着用となった。

 8月27日(火)本堂で“おあさじ”に参加、懐中仏(旅・本尊)を持参、お墓参りをすませて病院に直行。白内障、両眼を手術、病院に4泊、毎朝7時に病室で“お勤め”ののち生活が始まる。30日(金)に退院、投薬、治療して、保護メガネを着用。週2回の検診、通院が続く。


≪岡崎JAZZ STREET in 三河別院≫

日時 10月13日(日) 入場無料
開場 18:30 開演 19:00
ニューオリンズ・ジャズのスペシャリストのセッション。先着200名の観覧席あり。


≪秋の彼岸法要≫

 彼岸会は、仏法を聴き開いて、浄土の諸仏となられた先人の願いを確かめる仏事です。「たとい我仏を得んに国に地獄・餓鬼・畜生あらば正覚をとらじ」阿弥陀の本願の第一・・・無三悪趣の願。私の親や、そのまた親たちの還相回向の尊いはたらきのすえの願いです。

 名月を とってくれろと 泣く子かな  一茶







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発行人 住職 伊勢徳