寺報 清風







            末娘の得度

 生家の家屋や稼業、姓名、お墓など相続する「跡取り問題」は、個々の人生の自由と権利が尊ばれ、所謂「両もらい」など耳にしなくなった昨今、全国の寺院でも深刻な状況にある。実際「ただ寺に生まれたから」という理由で、飯が食えるとか食えないとか、僧侶になりたくない者が念仏の教えに頷くことなく住職を継承することは、当人にも門徒にも甚だ悲しいことである。改めて披瀝すれば、自身が高校時代より実家を離れ20年間帰らなかったことは、人生を選択するという自負心と納得せぬまま僧となる使命感の葛藤が根底にあった。幸いにも念仏する先達との稀有な出遇いに恵まれたことで、経巡った軌跡の全てが現在の私の糧であったと引き受けることができている。むろん先のことはわからない。

 人は出遇いによって人生が決まる。真宗の宗祖、親鸞聖人は当時仏教界の頂点であった比叡山で明け暮れた20年間の修行と学問の結果に絶望し、下山した先で「この人に騙され地獄に落ちても後悔しない」と確信した、生涯の師と仰ぐ法然上人に出会われた。しかし35歳の時に師と同様に流罪となり、以後師弟に再会する縁はなかった。だがその出遇い一つで、90年の人生の要が定められた。親鸞没後もその弥陀の本願の教えに感動した、弟子と門徒らにより伝えられてきた念仏が「浄土真宗」である。もと親鸞は源平の争いや地震や飢饉、疫病の蔓延する、無常たる動乱の時代に生を受けた。9歳の時に京都の青蓮院で出家得度したことに因み、東本願寺では9歳から得度式を受け僧侶になることができる。

 周知の通り私には3人の娘がいる。私から寺を継いで欲しいと頼んだことはないが、幼少時から自ら坊さんになりたいと願い続けたのは三女であった。映画好きの私が繰り返し観た『少林寺三十六房』(1978年、ラウ・カーリョン監督)が教材となったか、習い事はピアノや習字と考えていたが、徳風の卒園前から「空手を習いたい」と主張し続けた彼女は、小学校入学と同時に地元の道場へ通いだし、現在も黒帯を目指し頑張っている。強くて優しい坊さんに憧れ、私が衣を着ていると「私も坊さんになって着たい」と、新調した輪袈裟にも「今日のはカッコイイね」と興味津々であった。そうした自己の夢を実現する姿勢に、私は彼女の得度に踏み切り、第一関門となる得度に先立つ「得度考査」という試験への準備が始まった。

 何も知らない小学4年の娘に経典類を用意し、まずお経本について「かつて2500年前にインドのお釈迦さまが人間の人生で最も大切なことを物語り、弟子達が一字一句記憶して、死んだ後にサンスクリット語という昔の言葉で記録して・・・三蔵法師の出てくる『西遊記』知ってるか?」、「知らない」、「昔の中国の偉いお坊さんが、苦しむ人々のために命懸けで旅をして経典をインドから持ち帰り、頑張って中国語に翻訳した。その漢字で書かれた経典を、今度は日本の昔の偉い坊さんが持ち帰ったものがこれだ」と説明し、だからお前の汚い足で歩く畳の上に直接置いたりしないで、大事に扱うんだぞと伝えてみた。真剣に取り組む空手道と同じく「作法が大切」、「弱い者の味方」と理解は早いが、よし経典が何かもわかったかと尋ねると笑顔で「なんか、インドの神様が・・・忘れた」という程度だ。そこから考査の課題となる『阿弥陀経』読経、『正信偈』念仏和讃の勤行練習も始まった。私が帰宅後の、正座での約1時間の特訓をよく我慢した。

 緊張しつつも無事試験に合格した彼女は、その後も「お坊さんのいないお葬式」というコマーシャルに「なんだとー!」とテレビに向かい憤慨する姿も可愛らしく、法衣店で裾上げし一式揃えた衣にも嬉しそうに袖を通す。幼き子の素直な想いをして、世間はコロナで狂騒するなか8月に京都の本山へと赴いた。男子は当然のことながら剃髪、青いクリクリ坊主の男の子達に女性も混ざっての得度式である。彼らは、生きる意味を問い尋ね新たに仏道の第一歩を志すことから、昔から「御新発意(オシンボッチ)」と呼ばれてきた。妻曰く、私が法要などで頂戴する果物類が大好きな末娘は、坊さんはフルーツがもらえると喜んでいる云々。だが過去の傑僧にも出家の理由が「坊さんになれば饅頭が食える」であった逸話もあり、不浄な初志も容認するとした。

 春に出家を志した幼き親鸞は、夕暮れ時だからと「明日になさい」と諭した青蓮院の院主で天台座主を務めた高僧慈円に、「明日ありと思う心のあだ桜、夜半に嵐の吹かぬものかは」と歌を詠み、感銘を受けた慈円のもとその日の夜に得度の儀式が行われた。その史実を鑑み、東本願寺では昼間に本堂「御影堂」の唐戸を閉め、暗闇の厳粛な雰囲気のなか得度式が執行されてきた。付添人も見学はできない。白服の上に黒衣を着用し、剃刀の儀「おかみそり」を受け、墨色の袈裟を授与された彼女の法名は「釈尼有紗」、本名のままを名付けた。万事が便利で都合のよくなったかに見えた文明社会も、コロナウイルス一つで根底から覆される諸行無常の世界である。人に生まれたは、皆が思い通りにならない人生と人間関係に苦悩しつつ、必ず老病死の避けられない現実をして私達は自らの生きる意味に迷妄する。自我の眼ではどう努力しても不可解な、暗鬱で愚痴ばかりの人生に射す一縷の光を聞思して、共に歩みだすことの発心の意義に、たとえ寺を継がずとも何時か目覚めてほしいと願いつつ。真宗門徒にとって最も大切な法要、本年の報恩講をしてデビュー戦(衣を着ての出仕)とする予定である。

[文章 若院]


欄外の言葉

 一番大切なことは、人に迷惑をかけている、その自覚です 故・祖父江文宏

 どうか手が合わさるような世界に触れてくれと願われている 佐野明弘



≪若院の伝道掲示板≫

 病気で死ぬ そのこと以上に 大切なこと

 もったいないが 仏と縁から物になり 金と時間になった

 共に生きる これが難しい 人間の愚かさ

 争いの心中 我は善なり 汝は悪なり


≪五環紋について≫

 我が宗派には「八藤紋」「抱き牡丹紋」が使われ知られているが、約50年前から新たに合紋として「五環紋」が加わった。宗祖・親鸞聖人誕生800年記念に制定された。帰敬式を受式された方に授与される肩衣、同朋会の開催時に掲げる提灯等々から目にして知ることとなった。来る彼岸法要の折、本堂正面の破風に、新調した幕=五環紋の玄関幕を吊り下げます。祠堂金を上納いただいた浄財で賄われました。

 ご門徒のNさんが“仏壇の洗い”をされました。仲立ちをすることから「打敷」も求められましたので「前卓」は家紋、「上卓」には五環紋をモチーフにして刺繍し、新調されてきました。

 夫とふたり 籠の鈴虫 鳴きすぎる  及川貞

 脊髄、下から第3・第4関節が圧迫骨折。日中起き上がっていると徐々に痛みだしてくる。午後からは横になって休んでいることが多い日常です。診察、リハビリなどを受けているも、後期高齢75歳の住職、なかなか好転しない。寝ている部屋の片隅には「鈴虫の籠」を置き、日ごと餌やり、水吹きの世話をしている。『和漢三才図絵』には、「里里林里里林」と鳴くと識されている。

 庭の片隅に「芒」が一叢生い茂っている。夏のころ青々していたが秋日のなか1.5~2mあまりとなり、黄褐色のものさびた尾花を穂状に咲かせ白く変化してきた。萩や女郎花と並んで秋の七草として挙げられている。

[文章 住職]


≪東日新聞の記事≫

令和2年3月15日(日)寄稿
【(3)莫言の初来日と称念寺】

 莫言が徳風保育園の園児たちにされた『雪と餅』という物語も、中国語で記された記念碑が境内にある。その内容は次の通りである。

 私が小さいころ、私の父方のお婆さんが話してくれました。むかし、天から降ってくる雪はみんな小麦粉でした。人々は種をまく必要もなく、おいしい食べ物を得ることができました。

 ある日、天の神様が1人の天使を人間界に遣わし人々の生活と品格を視察させました。天使は物乞いになって、破れた服を着、欠けたお椀を持って、一軒の家の門口に立ちました。

 その家の中には1人のお婆さんがいて、天から降ってきた小麦粉でちょうど面餅を焼いていました。天使は彼女にいいました。「憐れな憐れな私です。あなたの焼いている面餅を私に1枚ください、私のおなかを満たしてください」。

 お婆さんは恐ろしげにいいました。「うせろ!この貧乏人が!」その時、お婆さんのそばで赤ちゃんがおしっこをしました。お婆さんは1枚の面餅を子供のオムツにしました。天使は悲しくなって、天にもどり、人間界であったことを天の神様に報告しました。

 天の神様は怒って、その時から天の上から降ってくるのは小麦粉でなく冷たい雪となりました。そして、人々は苦労して働いて食べ物を得るようになりました。

 私のお婆さんはもう一つ話をしてくれました。私はそれを覚えています。

小池安利 (遼寧工業大学 日本語講師)


● 残暑お見舞い申し上げます

 今年の夏は新型コロナウィルス感染拡大のなか、例年と違い心配しつつ、対応を迫られての「盆経会」「一向浄苑・万灯会」でしたが、ことなくお勤めすることができました。これからお寺では「秋の彼岸会」「お取越」「報恩講」と法要は続きます。「秋の彼岸会」は、7時のおあさじ、8・10時に法要・法話とします。日々感染者数が変わる中、状況によっては内容などの変更が生じることがあるかとも想定します。
 暦は初秋でも、極暑が続くようです。健康管理には充分ご配慮ください。





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発行所
真宗大谷派 称念寺
発行人 住職 伊勢徳