寺報 清風





                価値観という罪悪


 カリフォルニア州に本社を置くタワーレコードという会社には「No Music, No Life」との理念がある。直訳すれば「音楽なくして何の為の人生か」、「もし音楽がなければ生きている意味はない」となる。世界的なレコード販売会社の姿勢として、音楽こそが人々に感動や豊かさを与えるのだと掲げてきた、単純かつキャッチ-で有名な言葉である。確かに私達には、心底楽しんだ行事や涙が枯れ果てた出来事など振り返れば、そこに聞こえていた、この先も忘れることのない音楽が、一緒にいた人や情景と共に想い出されよう。成句として広く世間に周知されたことで、地元の二郎系拉麺屋の厨房でも、ミュージックの箇所を「ラーメン」に書き換えた黒シャツを着る店長がおり、何物かをして人生は意義深いのだと、他業種でも流用されてきた。単なる趣味を超えた大切なこと、これさえあればと本当に好きなこと、自身も旅に映画に読書など我が人生に不可欠な要素としており、その率直な表現が素敵だと長年私も共感していた。

 だが或る日、法話を聴聞していた際、それまで気が付かなった、この標語の持つ差別性にハッと目が覚めた。何度も起こって来る、真宗の要たる開かれた浄土の門扉に立つ瞬間である。個人的な選択や大義を条件に「それなしでは人生に意味なし」とは、なんと乱暴な表現であろうかと改め直した。すぐに、東本願寺での役職の繋がりで出会った、聴覚障害を持つ「ろう者」である友人の顔が脳裏に浮かんだ。タワレコが全国各地で標榜してきたこの言葉を、耳の聞こえない人達は、音楽を聴くことができないことで人生を全否定されたこの醜悪な響きを、どう受け止めておられただろうと忸怩たる想いで胸が痛んだ。相模原の施設で19人が殺された殺傷事件で、元職員の犯人が「重度の障害者は生きる価値がない」と主張した紙一重の概念を、無自覚に喜んでいた慙愧なき私が露呈した。我々の日頃の心でも「年取ったらつまらん」、「寝たきりになったら・・・」と同様、改めて人間の闇の深さに慄いた。その上、自分と異なる目の前の人がどう思うのか、自我分別で見失い続けているのだ。

 そもブッダ釈尊の出家は、自身の具体的な悩み苦しみから始まっており、生来のレールの上を歩む迷い、老いや病気、死という現実をどう受け止めるか、或いは愛する者との死別や思い通りにならない境遇、止むことのない欲望と煩悩にどう対処するのか、また自然界の弱肉強食から人間社会に於ける差別や戦争に至るまで、その教えは様々な問題に対峙してきた。無論、折々に人が抱える苦悩は縁により異なるが、「人間とは何か」、「自分とは何か」との問い唯一点をその根拠とし、インド、中国、朝鮮、日本と伝播しつつ、どの時代、どの国の人間にも回向の教相が共鳴されてきた。かつて中国の高僧が仏の教えを、自分を見つめる鏡に喩えられた所以である。

 2500年の仏教の歴史気に生きた先輩諸師が、各々の境遇は違えども、同じく人として悩み歩んだ活きた言葉が、記憶され書き残され、そして大切に伝えられてきた。そう、真実には「はたらき」があるのだ。例えば、中世に琵琶法師が弾き語った『平家物語』の冒頭、「祇園精舎の鐘の声、諸行無常の響きあり」と聞けば、どれ程の隔たりを経ても「この世のあらゆることは常に同じということは無く、永遠に変わらない物など一つもないのだな」と色々な意味で感慨深く、恰も釈迦の悟りの如き諦観すら促す。浄土真宗の最大の特徴は、修練する僧侶のみに限らず、老若男女あらゆる人々が、その教えを共に聞くことができる聴聞の場にある。そして俗世に暮らす我々の、日々の幸福とストレスに直結する最大の関心ごとは、その人間関係にあるといっても過言ではないだろう。

 私達は、大事な人を、大事にできているだろうか。夫婦や親子、兄弟など家族、或いは学校や職場、地域での人付き合い等で、自分以外を大事にしない人は孤独である。とりわけ主従の明確な夫婦、力に差のある職場、ヒエラルキーの強い学校、利害を有する間柄、また近年では匿名性の高いインターネット上の世界などで起こる関係性の崩落は深刻で、抑圧に無自覚な支配者には、隷属せざるを得ない屈従者の悲鳴が聞こえない。悲しきかな、存在が人を傷つける。尚又、年齢と経験が増す程に「自分が正しいに違いない」との横暴は加速する。この断絶は序列に厳しい親子関係にも顕著で、そのことは法事で読まれる『観無量寿経』というお経の導入が、インドの王舎城で起きた、アジャセという太子が実の父親を幽閉し餓死させた「子の親殺し」の実話から始まることと無関係でない。鎌倉仏教の祖師たる法然と親鸞も、数多の法蔵から厳選した、家族の惨劇の経典を通し民衆の救いを見出だしたのであった。

 私自身、親子の意見の違いに「何故わからんのか」と威圧し、自分の都合に合わずば「馬鹿か田分けか」と罵倒し、評価や批判ばかり何度繰り返したろう。怒ってばかりは避けたいが、短期アルバイトを探すのに、スマホアプリの検索で条件に合致したのが「専業主婦に公共料金の支払い催促をするコールセンターの仕事」だという。どう考えても振り込め詐欺の掛け子でないか。他にも腹立たしい言動が度重なり、先日はつい「お前は人間失格だ」と長女に言い放った。普段は無視し上手く躱す彼女も、流石に「それは酷い」と怒った。当然である。私も「悪かった」と謝った。これまでも、自らの過去を他所に「懸命に生きろ」、「才能を無駄にするな」、「将来を考えろ」と、陳腐な常識ばかり強いてきた。最期には「あいつなどいない方が良い」、「従わない者は殺してしまえ」となる人間の理性は、ナチスの優生思想をして終焉した訳でない。当たり障りのない態度で過ごす戸外でなく、寧ろ家庭内や身近な人に対し常態化する地獄なのである。

 真宗の本尊である阿弥陀仏は、人間の形を模した仏様の絵や像として表現されるが、その内実は「摂取不捨」の精神である。無条件におさめ取って捨てない。即ち「No」という境界線の無い世界、「あなたのまま」、人のどんな生き方にも死に方にも、その内容をして意味や価値が失われることはないという、平等の眼をこそ仏という。保育園では、長年の慣習で、卒園式の壇上にて「大きくなったら何々になりたい」と子ども達に発表させてきた不適切保育を改め、今後はどうしようかと妙案を模索している。

[文章 若院]


欄外の言葉

 自分の経験に当てはめると、人の声が聞こえなくなる 高柳正裕

 そもそも命には、意味付けや価値付けをしてはならない 佐野明弘


≪若院の伝道掲示板≫

≪講師紹介≫

佐野明弘 師

 加賀市光闡坊住持。もと禅宗で出家し厳しい修行により悟りの世界を目指したが、縁あって念仏者であった北陸の真宗僧侶との出遇いをして転派。本年4月からは、京都にある真宗大谷派の全寮制の道場である大谷専修学院の院長を兼務され、新たに念仏に学ぶ人達と共に、丁寧に教えに向き合っておられる先生です。


≪華麗なピアノ曲が流れる≫

 本堂で、ある法事が勤められました。途中の休憩の折にピアノの調べが流れました。音大卒の娘さんが故・父に捧げる“レクイエム”として本堂にあるピアノに向かって座り、育ての親を偲びつつ、とても丁寧にメロディーを弾かれました。印象的なシーンがありました。

 本堂での門徒さんの葬儀で、法事などで住職が依頼を受けて、雅楽チーム「雅了会」が参加することも極稀にありました。雅了会には、折々寺の法要、お彼岸・お盆・報恩講などの重点箇所には「奏楽」をと参加・協力をお願いしています。

 毎回事前には、音合わせの稽古をして臨んでいます。指導はメンバーのA・Iさん。師は近年新装になった名古屋栄の中日ビルでのカルチャーセンターの講座を担当して、広く雅楽の普及と指導に励んでおられます。






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発行所
真宗大谷派 称念寺
発行人 住職 伊勢徳