寺報 清風










 承安3年(1173年)の4月1日、京都市南の郊外、日野で出生す。幼名は若松丸といいました。9歳のとき、叔父の範綱卿に連れられて、粟田・青蓮院の慈円僧正のもとで得度、範宴と命名。9歳といえば現在の小学3年生ほど、幼くして厳しい現実を知らされつつ、あこがれの比叡山に向かったのでした。

 当時の比叡山は、天台宗の道場であり、また仏教の最高学府としての権威をもち、境内には諸堂が甍を連ねて多くの僧が住んでいました。その中の横川・常行三昧堂において堂僧として、昼夜を分かたず不断念仏の行に励みました。一心不乱の称名を実践しましたが悟りの境地を開くどころか、苦悩はさらに深まるばかりでした。

 迷いの晴れない聖人は、建仁元年(1201年)29歳の春、聖徳太子ゆかりの六角堂に参籠した。95日目にして太子の夢告があった。「修行僧がもし女性関係をもたずにいられないならば、観音自身が相手をし、一生の間大切にして、臨終の折まで浄土に導いてあげましょう」という詩文を授かった。これによって愛欲の煩悩にまみれながらも浄土に往生できる道があることを確信したのでした。

 太子の示現を得た朝、吉水の草庵に法然上人をたずねました。そして百日間、上人のもとに通い続け、不審の数々を問いただしました。聴聞によって様々な疑問が氷解した聖人は、法然上人を生涯の師とたのみ、叡山に別れを継げた(法然69歳)。

 聖人29歳、吉水で勉学に励む。33歳のとき、法然の主著『選択集』は公開されず、6人の高弟に限って書写が許された。その一人が親鸞であった。この年、善信という名を師・法然上人より贈られる。法然上人の教えや教団に対して、その発展に伴って比叡山や奈良仏教から批判の声があがるようになりました。元久元年(1204年)延暦寺が抗議し、南都の興福寺からは浄土宗を禁止する旨の奏上が調停に提出された。

 折悪しく、宮中の女官が無断で出家する事件が起こり、建永2年(1207年)念仏禁止令が出て、法然上人はじめ弟子たちも各地に流されることになりました。師(75歳)は藤井元彦の俗名で土佐へ。聖人(35歳)は藤井善信の俗名で越後の国府に流罪に処せられる。

 流罪の地にあっても念仏を忘れることなく、むしろ逆縁を良縁に転じていかれました。その地で、間もなく三善為教の娘、恵信尼と結婚。聖人は「非僧非俗」という、僧侶でも俗人でもない自由な立場で仏道を歩み、念仏の教えを人々に説き広めつつ、自身を「愚禿」と名のられました。建暦元年(1211年)赦免となるも、その地に留まりました。

 聖人42歳、妻子を伴って現在の茨城県(常陸)に移る。稲田・小島・下妻に住んで教化に励む。弟子は武士階級から百姓、商人、猟師に拡がり、地域も下総・武蔵・陸前・奥羽に門徒集団が結ばれていきました。元仁元年(1224年)52歳、為政者の念仏に対する誤解をとき、浄土のみ教えが正しい仏法であることを明らかにするため『教行信証』の執筆にかかる。時は法然上人の13回忌でした。

 関東で約20年の布教の後の62歳、文暦年間に帰洛。この頃においても専修念仏はご法度とされていた。念仏の声が絶えた京都にあって、表立って活動することなく専ら著述に勤しまれた。七五調の平易で分かりやすい『和讃』、さらに『唯信鈔』、『愚禿鈔』などを。

 善鸞は聖人の長男で、門弟の教化のため関東に下っていた。善鸞は聖人直伝の教えと称して浄土の教えを覆してしまうような発言をし、自分の意に沿わない関東の門弟たちと対立した。事の重大さを知った聖人は、建長8年(1256年)やむなく息子・善鸞を義絶しました。84歳のことでした。

 弘長2年(1262年)11月28日、念仏を称えながら息を引き取られました。枕辺では末娘の覚信尼ほか、顕智房、恵信房などが臨終を見守ったという。遺体は翌29日、東山の延仁寺で火葬に付され、30日に鳥辺野の北、大谷に納骨されました。

 親鸞没後10年を経た文久9年、高田の顕智房などが主となった熱心な門弟たちは、京・吉水の北の地に六角の堂宇を建てて、ご影像を安置した、これが大谷本廟です。覚信尼とその子孫が留守職にあたった。これが原始本願寺の母体です。聖人の曾孫にあたる覚如上人は、初めて本廟を「本願寺」と名のりました。また、親鸞『伝絵』や『改邪鈔』などを著し、真宗の教えを正しく伝えることに尽力されました。




  私を見ていてくださる人があり 私を照らしてくださる
    私を照らしてくださる人があるので 私はくじけず今日を歩く






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2008年10月号

宗祖の生涯(略)
発行所
真宗大谷派 称念寺
発行人 住職 伊勢徳