寺報 清風








              変わらないこと


 境内の工事現場では素屋根が撤去され、森等棟梁が造り上げた新本堂の見事な外観が姿を現した。長年に亘り構想を練ってきた住職のこだわりが随所に見られるが、本堂を見た人からまず質問されるのが「あの馬は何か意味があるのか」ということだ。屋根の最上部、左右に本来あるべき鬼瓦の場所に、馬の上半身が鎮座しているからだ。日本全国にコンビニの数より多いという多々ある寺院でも、馬が乗った本堂は称念寺だけであろう。この馬こそ、後に真理に目覚め仏陀となった釈迦族の王子ゴータマ・シッダールタの愛馬「カンタカ」である。

 皇太子として大切に育てられたゴータマは、多くの人が幸せの条件として追い求める富や名声に生来恵まれ、豪華な住居や食事など与えられ暮らしていた。しかし「四門出遊」の伝説にあるように、人間が生きることの根底にある、誰しも避けることのできない老い、病気、そして死の苦悩を見つめ、その人生全体を受け止め悔いなく生きる道を求めるようになった。29歳の時に都カピラ・ヴァストゥの城を離れようと一大決心をしたが、妃ヤソーダラとの間に誕生した子ラーフラもあり、全てを捨てる旅の決意に迷いが出た。まさにその時、従者チャンナの引いてきたカンタカの高らかな蹄の音で我に返り、彼は城を後に出家したという。釈尊の迷いを断ち切った聡明な駿馬カンタカがいなければ、仏教も称念寺も、今この寺報を読んでいる皆さんも存在しなかったかも知れない。約2500年前の北インドの馬を含め、今ここに在る私達は本当に様々なご縁に依り生かされている。

わがものとして執着したものを貪り求める人々は、憂いと悲しみと慳みとを捨てることがない  『スッタニパータ』 釈尊

 京都の本山・東本願寺には、宿泊できる聞法道場「同朋会館」がある。北は北海道、南は沖縄、ときに外国からも人々が泊りがけで我が身を教えに尋ねに来られる施設だ。私は米国から帰国し間もなく、同朋会館の嘱託補導という世話役に携わり、以来自身の仏道修行の要となっている。今年の9月、補導として九州からの団体を受け持った。事前資料を確認すると、益城町など熊本地震の被災地から来られる方々であった。私も瓦礫撤去と炊き出しのボランティアに赴き、仮設住宅の暮らしを含め悲惨な現状を垣間見たので、家の倒壊や余震、生活の変化など様々な被災後の問題が語られるのであろうと思っていた。この同朋会館では2泊3日の間、それぞれの忙しい日常を離れ、同じ釜の飯を食べ、朝夕『正信偈』を勤め共に教えを聞き、お互いの言葉を聞く時間が十分にある。しかし、そこで語られたのは私の予想と違い、被災者としての嘆きや愚痴ではなかった。

 ある女性は40過ぎの主人を早くに亡くし一人でなんとか生きてきたが、近年に親友も先に亡くなり孤独と虚しさから教えを聞くようになったという。他の女性は主人がガンになり初めて人生を見つめ、京都の本山で帰敬式を受け、夫婦で法名をもらいに来ておられた。またある方は、自身は健康で娘夫婦にも可愛い孫娘が生まれ2歳となったが、その孫が数か月前にインフルエンザを患いウィルスが脳に回り急死した、その悲しみに向き合うために上山されていた。あるオバちゃんは、当の自分が昨年末に末期ガンを宣告され、残り数か月あるかないか文字通り命を削り、人生の最後に東本願寺に仏の教えを聞きに来られていた。この団体の最年少に中学生の女の子がいた。1人では長旅が心配な老人の付き添いだろうと思ったがこれも違い、一緒の祖母は登山好きの元気な方であった。とても尊敬するばあちゃんに「学校では教えられない大切なことが本願寺で学べる」と言われ、学校を休み参加していたのであった。

真摯に考え真摯に生きんと欲する者は必ず熱烈なる宗教的要求を感ぜずにはいられない  『善の研究』 西田幾多郎

 人類の社会は発明を元に発展し続け、現代では便利な家電、携帯電話、自家用車、コンビニなど街に溢れ、かつてない豊かな暮らしを実現した。さらに医療技術や薬品類も充実し、一見常に前向きに対処していけるような幻想まで抱く。あまりに都合が良くなり、日頃は「健康で長生きが一番」などと安易に業縁を軽視する私達である。しかし時代や環境の違いに関わらず、老病死という思い通りにならない命の事実に向き合うと時、人は人として、言い換えれば私が私として、生まれたことの意味を求めずにはおれない。だから九州から上山した方々は、単に現在抱える苦悩に対し、一時期の癒しや慰めを求めて京都まで来られたのではない。誰にも代わってもらえない悲しみも、かけがえのない大事な人生の一部として引き受けていける言葉に出遇いたいと心の底で願われたのだ。

 若き日の釈尊がカンタカに乗り、胸に抱いたであろう同じいのちの叫びが人々を仏道に立たせたのだ。各々が忙しい目先の日常を過ごすなか、今年も報恩講、お取越のお勤めを通して仏法を聴聞し、どんな人生の過去も未来も引き受けていくことのできる、今を生きることの深さに共に触れていきたい。

[文章 若院]

下がらん頭や合わさらん手を阿弥陀が待っている  三島清圓

宗教心は自分で起こした心でないから眠らせることもできない  和田稠




≪お取越のご案内≫

 家庭版報恩講であるお取越のお勤めが始まりました。例年通り世話方さんに案内を届けていただき、約300件を順次お勤めさせていただきます。今年は若院の法務の都合で、11月以降のご案内が少し遅れる予定です。ご容赦ください。また例年の案内がない方は、個別に寺に直接申し込みいただければお勤めに参ります。合掌


≪講師紹介≫

 三島清圓師は文章にある同朋会館で法話を担当する教導を長年されており、全国の若手僧侶や門徒諸氏から厚く慕われる坊さんです。私にとっては、以前赴任していたハワイの寺におられた先輩開教使でもある。人間存在だけでなく文化、歴史にも鋭い考察を巡らせ、話も面白い陽気な先生です。今年の報恩講のご縁に皆さんと一緒に法話を聞かせていただきたいと思い、多忙な時節に是非にと来ていただくようお願いしました。

 また2日目の梛野明仁師は、ご存知のように毎年来ていただいている西尾の琵琶法師、全国的にご活躍されている三河スーパー絵解き座の座長さんです。ご縁がありましたら両日共に是非ご参詣ください。


≪工事の進捗状況≫

 本堂の本体の工事は終了となった。よって造宮大工さんたちは作業現場からいなくなった。次の作業の職人さんが入れ替わり、立ち替わりでやって来る。電気配線、建具の取り付け、空調機器の設置、襖などがはめられていく。部屋の電気が点灯した。屋外で、配管の埋め込み、参道の石工事も始まった。天水桶一対が取り付けられました。

 10月14日の午後、建物防災検査が行われ、無事パスした。この時期から表具工事に着手、内陣の仏間の壁面、幅7間、約14メートル全面「蓮の花」、「天女図」の壁画が貼られていく工程が開始。

 床面の塗装にも着手した。主塗料「柿渋」、補塗料「ベンガラ」を配合し塗っていく。鉋で仕上げられた白木の柱、梁などの木肌に塗装。うっすらと柿渋色に染められていく。各種の「欄間」に基調した色合いは、室内全体に落ち着いた雰囲気を醸し出してきた。ケヤキ、チーク、黒檀、ブビンカ、三明松などが、それぞれの木質を一段と表現しています。約1年間取り組んできた柿渋塗装も、いよいよ最終段階となった。(但し天井の彫り物は仏具店が全て担当した)

 柿渋が10年後、20年後にはどのような色合いとなって変化していくでしょうか。後出の松本社長さんから言われた。細部を見て「塗師、住職さん。あなたは二流どころか、まだまだ三流の域ですね」と。

 10月25日、表具屋さんから「天女図」の絵は、壁面の面積より小さいことを指摘された。住職の発注ミスから大問題が生じた。壁面1枚が畳2畳分の大きさの絵が18枚、10年前に上海市内の仏画師に依頼した作品であったため、現時点どうしたものかと途方に暮れた。夕方には、京都の仏具店の社員も駆けつけてくれた。絵をつなぎ合わせていくと、どうしても寸足らずになる。よって枠で縁取るか、縁を付けるかなどなど。よい解決策が見出せず、途方に暮れた。翌26日に八尾市の「松本仏具」の社長に相談を持ち掛けたら、夕方には駆けつけた。仏間の壁画の絵画の仕上がり状況を想定した。答えは、表具を貼り終えた後に特別な「絵師」を紹介し、その方を派遣すると。その仏画師が不足分を補筆、加筆で解決する方法を教唆されました。いとも簡単にすっきりした解決策を説明された。さすが専門家の対処は違うこと、改めて感心しきりといった次第で安堵した。

 11月になって新本堂と旧・会館の廊下をつなぐ工事にかかった。また庭に、渡りを掛けることとした。この後数か月本堂内には、修理された仏具が順次設置されていきます。


≪本堂とは?≫

 外陣の大虹梁に扁額「聴聞」が掲げられました。門徒は仏法聴聞が生涯の課題です。親鸞聖人に学び、毎年「お取越」を勤めて11月の「報恩講」に参詣することが真宗門徒の心得でもあります。新本堂は「私の本堂、あなたのお御堂」です。明年の3月25日、26日に落慶法要を厳修します。

 会館で勤める本年の「報恩講」は11月22日、23日の2日間。雅楽「雅了会」による奏楽はありませんが、既にメンバーは落慶法要に向けて研鑽を積んでいます。舞楽=胡蝶の舞、練習も間もなく始まります。





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発行所
真宗大谷派 称念寺
発行人 住職 伊勢徳