寺報 清風






         成就するいのち


 先月、三重県に足を運んだある法話会で、ゴキブリの命の話が何故か鮮明に記憶に残った。私達は生まれたくて生まれてきたのでない、生まれてきたらたまたま人間である自分を生きていた。また選んでこの時代の日本に生まれたのでもない。ゴキブリだって同じで、生まれてきたらたまたまゴキブリの命を生きていた。好きで人間に疎まれるゴキブリに生まれたわけではない。命の生まれ方は人間もゴキブリも平等なのだ、と聞いた。当たり前に生き、悩んだり傷ついたりし生活しているその根底に授かったご縁がまずあった。そしてそのご縁から広がる代わる者のない背景は私だけでなく、あらゆる命に共通するものであった。不思議なことに、たったそれだけのことを聞いたということが、色々な意味で私の傲慢を揺さぶった。きっと、科学的に説明された生命でなく、仏の眼から見た「いのち」だったからである。

 今年の春頃、朝早く寺の離れに出勤すると「ピーピー」と雀の緊迫した鳴き声が聞こえた。何かと思って庭に出てみると、門徒会館の屋根の辺りで数匹の雀が大騒ぎをしている。それまで気が付かなかったが良く見ると軒下に巣があった。そして足元を見ると、生まれて間もない小さな雀が必死でのたうち回っていた。かわいそうに、まだ飛べない赤ちゃん雀が巣から落ちてしまったのであろう。私が近くで様子を見ると、更に親雀が大きな声をだす。もう助からない、死を目前にした小さな雀に、どうにもできない悲愴に満ちた親雀の鳴き声が響き続けた。私は雀も人間と同じ心があることに驚いた。その日の午後、草木の影に隠れるように小さな命は息絶えていた。そして秋になりふと思い出し、あの悲しみをまだ覚えているだろうかと屋根の上の親雀を再び眺めてみた。

 またある日、家族で焼き肉を食べに行き、生ビールに牛タンから始めた。私が「これは牛のベロだぞ。輪切りにしてあるんだ」と言うと、今年中学に入った長女から「パパ。気持ち悪くて食べれなくなるから、そういうことは言わないで」と注意された。パック入りを購入するのが当たり前となった昨今、ある小学生が魚の絵を描いたら「切り身」を描いたという笑えない話があるくらいだ。また修学旅行に広島で原爆の悲惨さを学ぶ中高生も急激に減ったが、学校や教師が避ける理由の一つに子供達の精神的なショックがあるという。命を奪ったり奪われたりする歴史事実に心痛があるのは当たり前で、命の学びであるその悲しみを忘れてはならない。肉を焼きながら、牛さんだって死にたくないその命を人間が奪って食べているのに、事実に目を向けないのはいかん。だから手を合わせ「いただきます」と言うのだ、と一応の説明をしてはみたが、子供達にはあまり通じなかったようだ。

 一番下の子供は小学1年生となり、絵本を自分で読むようになった。そこで『いのちをいただく・みいちゃんがお肉になる日』(講談社)を買い与えた。食用牛の屠殺場で働く親の子供が、学校で父親の職業を聞かれ恥ずかしく「肉屋」と答えたことから、学校の先生が立派な仕事だから隠さず胸を張れと生徒を諭した。見直した息子だったが、当の父親は自分の仕事を嫌った。彼はある日「みいちゃん」と呼ばれる牛と一緒に育った女の子が、殺される牛を憐れんでいる姿を見てしまう。心を痛めながらも牛を殺める直前、牛の目から涙がこぼれ落ちたという。後日、その肉を女の子は泣きながら食べ、そして男性も仕事を続けることにしたという、事実に基づくお話だ。野菜が好きなウチの末っ子も泣いた牛に本当かと驚き、物語に書かれていない「これからはお肉を大事に食べよう」という感想を残してくれた。まさに「食うか、食べるか、いただくか」の瀬戸際である。

 かつて釈尊が語った『仏説無量寿経』は、あらゆるいのちの成就が願われる壮大な物語である。仏法は常に対義的に教示する、つまり娑婆の現実は命の満足が難しいのだ。ゴキブリや雀や牛と人間、戦争や飢餓や放射能に苦しむ世界中の人々と我々、北朝鮮の人々と小さな海を挟み暮らす私達日本人、欺瞞が露呈する人々とそれを傍観する私達、身近であるが故に傷つけ合うことの多い家族や友人と私、いや、思い通りにならない人生を抱えた私一人のいのちの成就こそが難中の難である。どれだけ世の中が便利になっても病気が治るようになっても、人は老い、大切な人と別れ、必ず命を終えていく。今ここに私が生きているという問いや実感は、失ってみて初めて気が付くその大切さのように、学問や努力でなく他力によってのみお与えされるものだ。だから仏法を聴聞し、教えを我が身に引き当て憶念する。「聞く」ということを人生の最も大切な基礎とした、700年の称念寺の歴史と共に歩んだ我々の先祖すなわち真宗門徒の生き方があった。尽きない煩悩で不満や欲求ばかりの迷いの人生全体に光を見出した釈尊の教えを、顕かにされた宗祖親鸞聖人の言葉の響きに出遇う報恩講を共にお迎えしたい。

[文章 若院]


欄外の言葉

 聞いた法話は忘れることはあっても、自分の問いは忘れられるものではない。三島清円
 
 善い事をしようと思えば出来る。悪い事をすまいと思えば止められる。これを思い上がりという。


≪お取越のお勤め≫

 10月中旬より「お取越」のお勤めが始まりました。真宗寺院での最も大切な法要である報恩講の家庭版です。共に1年間を振り返り、お内仏の前で手を合わせ各々の人生を見つめ直すことで、お恥ずかしい限りの自分中心の姿や、思い通りにならないまま大事に生きるべきいのちを見失っていたことに気づかされます。

 地区別の世話方さん方に案内を配布いただき、若院が例年約300件を順次お勤めさせていただいています。それ以外にも、お寺に連絡いただければ、ご都合の良い日時に戸別でお勤めいただくこともできます。普段からお寺に参詣しない方も、この報恩講さんは門徒の1年の終わりと新たな一歩として大切にしたいものです。 合掌


≪本年度報恩講 講師紹介≫

● 安藤伝融さん (11月21日 夜6時半より)
 岡崎教区からの宗議会議員を担う。本年シルクロードの旅を主宰し、仏跡を巡拝された。『仏説阿弥陀経』を編纂した三蔵法師・鳩摩羅什のゆかりの地、千仏洞。『西遊記』でお馴染みの三蔵法師・玄奘が説法した火焔山の麓、高昌古城などが取り上げられるでしょう。

● 波佐谷見正さん (11月22日 午前8、10時)
 北海道厚岸市、正念寺の住職さんです。過去には長距離トラックの運転手、現在は昆布漁師をしておられます。これまでの人生経験や大自然の中での生活を通して教えをいただき、道内での多くのお寺へ法話に出掛けておられるお坊さんです。この度の報恩講には是非にと遠方より出講いただくようお願いしました。

● 梛野明仁さん (11月23日 午前8、10時)
 大須演芸場で、高田派の御本山などにも出演される、スーパー絵解き座の座長、琵琶奏者でもある。大須演芸場で落語家とコラボレーション、去る10月29日、津市の一身田の専修寺にて午後の部・夜の部の2公演があった。思いのほか遠かった。遠路各所からの聴講者もちらほら、大ホールは満堂の盛況であった。


≪4年ぶりの本堂での報恩講≫

 本堂改築にあたって、門徒会館で報恩講を勤めてきました。この間は参詣者がやや減少しました。4年ぶりの再スタートの気構えです。準備等にあたっても同様です。ご門徒の皆様3日間の報恩講のお座に、是非ともご縁をいただきますようお願いいたします。椅子席です。

 新本堂はご門徒さん各位のご懇念で完工されました。ご門徒さんの聴聞の道場です。「わたしのお御堂、あなたの本堂」でもあります。1座でも多く、お御堂でご聴聞くださるようご案内申し上げます。


≪雅楽≫

 拙寺には「雅了会」という雅楽の楽団があります。折々研鑽し、おかげさまで三河地方では演奏能力では頭目であるべく研鑽しています。よって近隣の社寺の大行事には、奏楽の依頼のお声をいただいています。「舞楽」までも演目の中にあって、隣県にまで出かけることもあります。大谷派の一般末寺の報恩講に雅楽の調べが付奏されることは、ごく少ない状況です(御本山、別格の別院などは必修)。

 22、23日、両日午前10時からの法要次第は、「付け物これ有り」の構成となります。音律に合わせて発声されてみてはいかがでしょうか。声明の一部分は高音域まであがりますが・・・。報恩講用の「勤行本」は寺にて用意しています。

 寺院の雅楽で特に有名なのは、大阪四天王寺の雅亮会です。おこがましいですが同音名を名乗るにあたって、先々代の伊勢了憲の名の「了」をもじって会の名称として結成し始動した。よって私(現住職=了徳)の幼い原風景は昭和の戦後時、雅楽の調べを耳にしたのが報恩講。当時の楽人さんはお檀家さんの野畑、岡田、都築、間瀬、古久根さんの先代のお顔など、それら故人の装束、楽器、面影には憧望のまなざしを向けていた。今も私のDNAとして残存しているように思われる。顔触れが2代目へと継承するなどもできていたが、時も流れて檀家さんのみによるメンバー編成は成り立たなくなった。徐々に一般の人達にも入ってもらうことに変遷した。広く厚く関心のある方達の参加者は、必然的に高度の目標と新たな課題を持つこととなった。そうした中に現・雅了会はある。

※ 笙、篳篥、龍笛など団員募集中です。


≪銀杏≫

 境内には、大小の銀杏の樹が十数本ある。大型台風21号が来襲した翌23日(月)には暴風雨で落下した「銀杏の片づけ」に追われた。この作業が大変であったが、助っ人も加わり想定した時間より短時間で終えることができた。報恩講の主食「銀杏ご飯」用の食材にするため「銀杏の皮むき」作業が待ち構えている。

 例年、大根、お米などのご進納をいただいて「お斎」を賄っています。有り難く受領させていただいています。22日、23日の午前のご法話終了時に門徒会館にて精進料理の「お斎の席」のご縁についてくださいますよう、お知らせします。


≪収骨室のご遺骨 本山へ≫

 収めいただいた小さい歯骨箱(六角形)のお骨は、各々3、4片を拾い上げて東本願寺に収骨させていただきます。本堂の須弥壇の下に、残りのご遺骨をお収めいたします。住職が、宗祖のご命日、11月28日にご遺骨をもって上洛する予定としています。





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発行所
真宗大谷派 称念寺
発行人 住職 伊勢徳