寺報 清風






         ガンダーラの憂鬱


 彼岸法要を終えバックパックを背負い、長年憧れたガンダーラを目指した。どこまで行けるのか、どこで引き返すのか、そんな旅であった。中部国際空港から成田を経て、直行便でインドの首都デリーへ飛んだ。空港到着は同日の午後11時半、夜中にニューデリー駅近くの安宿へ入り3時間ほど仮眠をとった。着替えもせず、まだ薄暗い朝6時に歩いて駅へ急いだのは前回、16年前にインドへ来た時にカルカッタから西へ横断しゴアへ南下したのだが、列車の切符の手配に数日を要した記憶があったからであった。

 外国人専用のチケットカウンターでは、構内で「列車がキャンセルされた」とぼったくる旅行会社や詐欺師が多いので気を付けるよう注意された。駅正面の玄関口では石畳の上に所狭しと人々が寝ており、その脇で巨大な野ウシがゴミ箱に頭を突っ込み、青いビニール袋ごと残飯を飲み込んでいる。リヤカーに1000本ものペットボトルを山積む水売りが歩き、裸の子共が野ブタを追い払い、便所には紙がない。切符売りのおばちゃんにしても「朝早いからお釣りないけど許してね」と言われ苦笑した。かつてに比べ乞食が少なく腰巻ルンギが洋装に変わり経済成長を感じさせたが、日本の常識からすると冗談のような混沌とした世界を目の当たりにし「ああ、またインドへ来たのだな」と思った。

 デリーから北西500キロにあるパンジャーブ州アムリッツァルへ到着したのは8時間後、オートリキシャ(三輪バイク)を捕まえホテルを数件見て周り、1泊1000円の宿へチェックイン、その足で街の中心にある黄金寺院に参詣した。寺院といっても、ここはスィク教の総本山、インド人の典型的な印象である民族衣装、見事な顎髭の頭にはターバンを巻き、腰にはクリパーンと呼ばれる刃先の湾曲した短剣を身に着けたスィク教徒の拠り所だ。インド独立、パキスタン分離独立の混乱時に100万人もの虐殺の歴史があるためか、年寄りのばあさんまでクリパーンを腰に下げていた。帰り際に男達が集まっていた露店に寄り食べた、鉄板で揚げた野菜コロッケをパンに挟み、それを包丁で縦横にブツ切りにし、ソースとグレイビーと玉ねぎをのせた名前のわからないB級飯が最高に美味かった。

 三日目の朝、英語のできないオートリキシャの地元運転手を探し当て、安値でパキスタン国境の街ワガーまで移動した。分離帯のある幹線道路でも車やバイクの逆走は当たり前、馬車に牛車まで逆走する風景にも慣れてくる。陸路での煩雑な国境越えは2時間ほどかかったが外国人は私一人、全て行列を飛ばし、この日の越境は1番乗りであった。その先でオートリキシャの運転手ズベーと知り合う。交渉する料金は高めだがいい奴で、ラホールの都心に位置する共同トイレ・水シャワーの1泊500円の安宿に連れて行ってもらい、両替屋、ビリヤニ屋に寄り、マンゴラッシーを一緒に飲みに行った。宿の屋上テラスで、イスラム教徒の礼拝時間になると街中に流れる「アザーン」を聞き異国情緒に浸りながら、私はこの先の予定を考えていた。ガンダーラはまだ先だが、次の日の夜半にはラホールでイスラム教スーフィーの神秘集会があると地元民からの情報もあった。北部のナウシカ「風の谷」で有名な桃源郷フンザへの外国人旅行者は多少おり、同じ宿の山好きのドイツ人や内科医の韓国人も北方から帰ってきたとのこと。だがガンダーラのある西部は誰も知らないなか、3度目のパキスタンで旅のバイクを買い取り、滞在合計は1年以上、今回もビザ滞在期限がとうに超過している(半年まで許されるらしい)強者のイタリア人ジャーナリストのマテオが西方に詳しかった。夜中まで話を聞き、情報収集と行事のため移動を1日遅らせた。

 次の日はマテオと一緒に絶品オムレツ・パラタとカバーブの朝食を食べ、スーパーに行き、その後一人で町の高級ホテルの裏にあると聞いたビール密売所へ行ってみた。袖裏に隠された缶ビールを受け取ると、監視カメラがあるため、倉庫の裏に連れて行かれ飲んだが酒はこの1本で止めにした。酷暑の停電に喘ぎながら夜を待つ間に、近所で知り合った英語を話す案内人シーヒーに3000円も渡したのは、トヨタの新車の専属ドライバーに500円、ボディーガードに500円、付き合ってくれるズベーに小遣い500円、そしてガイド料金1500円と、真夜中に郊外へ赴く安全の為であった。2年前のテロでしばらく中止となっており、当日も直前まで場所も不明だったが、その神秘集会では友好的に歓待された。また巨大なモスクの奥でスンニ派の男達が、夜通し拳を振り上げ野太い大声でコーランを朗唱する姿は身震いするほど究極の迫力であり、周囲の数万ものムスリムの男達はターバンの色で派閥の違いが見られるが、中にはメディアで見慣れた黒いターバンの若者もいる。丁寧な立ち振る舞いを心掛け、シーヒーの諸注意を慎重に聞きつつ街中を彷徨した。

 5日目に首都イスラマバードの隣町ラーワルピンディへとバスで移動した。この日から外国人を見ることはなかった。バザールの近い旧市街で宿を探すが外国人だと何処も拒否され、新市街でも断られ続け、歩き回った末に迷わずに帰れる街道沿いの宿を苦労して得る。西へ行くにつれ保守的となりTシャツの洋装を非難する声掛けを何度も受け、遅すぎたが民族衣装シャーワール・カミースを買い連日身に纏った。また女性が普通にいることに驚いた経済特区イスラマバードを、夜にボロいタクシーを借り切り散策した。この頃には手を握らない握手をし、ウルドゥー語で「アッサラーム・アレイクム(こんにちは)」、「ワーライク・マッサラーム(返しの挨拶)」、「バホット・シュクリヤ(有り難う)」、「アッラー・ハーフィズ(さようなら)」、「インシャラー(神アッラーの思し召しに)」など、挨拶程度は流暢になっていた。

 翌日、早朝から雷を伴った雨が降り続け至る所が冠水するなかバス停に行き、2世紀にクシャナ朝カニシカ王が厚く仏教を庇護し栄えた王国ガンダーラの中心、ペシャーワルへと向かった。漢語で布路沙布羅(プルシャプラ)、古代ガンダーラ王国の首都である。サンスクリット語による大乗の教えが確立されたガンダーラには仏塔や寺院跡が多く残存し、また阿弥陀信仰はこの地から始まり『無量寿経』を含む大乗経典を初めて漢訳した支婁迦讖(シルカセン)も輩出されたことから、中国へと伝わった浄土教の源流の場所だ。またペシャーワルは後に『浄土論』を著した天親菩薩の出生地でもある。初めは小乗に出家し、兄・無著の勧めで大乗に転じ、唯識を大成した天親菩薩の浄土往生の了解を、親鸞が『正信偈』で躍動するように表現したのが「天親菩薩造論説」からの12句である。

 細道が入り組む旧市街に到着し、相変わらず宿を断られ続け迷い歩いていた際、鉄鋼街で手を黒くした若者に声を掛けられ話し込むと人集りができ、西の民パシュトゥン人のおもてなしの緑茶「カッワ」を路上でいただいた。一人旅には出会いが多いが、ここでは浮かれてもいられない。外務省の海外安全情報では最悪のレベル4、真紅で退避勧告が発令されているタリバンの本拠地である。アフガン難民キャンプに密造銃市場、芥子栽培にテロや爆撃など異次元の無法地帯であり、当初私はカラシニコフで武装した民兵を雇い三蔵法師玄奘の歩いた道、アフガニスタン国境にあるカイバル峠行きを考えていたが検問の通行証が得られず落ち込んだ。また諜報機関による尾行調査にほとほと疲れながらも、次の日の朝、心を入れ替えシャーバーズ・ガーリにある仏跡を一人目指し、ペシャーワルより約50キロのマルダーンから、更に東に15キロほどの寒村に辿り着いた。村の奥に小高い丘があり、登っていくと紀元前3世紀のマウリヤ王朝で、仏の教えに厚く帰依したアショカ王が建てた石碑が鎮座していた。カロシュティ文字で刻まれた「仏法を大切に生きよ」とのメッセージを、2000年超の時を経て直に受け取り、心の内に何度も念仏しながら帰路に着いた。

[文章 若院]

本文の書き下し版をこちらに掲載します。場所柄あまり写真は撮れなかったけれど、多少アップしておきます。興味のある方はどうぞ。


欄外の言葉

 周りに人がいるけれど、自分中心に生きている 海法龍
 
 どんな子供も自分の人生を大切に生きたいと願う 梶原敬一


≪2019年岡崎教区20組聞法会のご案内≫

 日時:1月9日(水) 午前10時より
 於 称念寺
 法話:波佐谷見正師
 当日受付:500円

 昨年に拙寺の報恩講に来ていただいた、北海道で昆布漁師をされているご住職です。再度ご足労いただくようお願いしました。


≪アフリカ音楽のライブ開催≫ 

 若院の友人僧侶に山下君という、アフリカ太鼓・ジェンベのプロ演奏者がいる。マリ人、セネガル人、マリンバ奏者などを引き連れツアーで全国を回る際に、名古屋でのライブの翌日にお寺に来てもらえることとなった。新本堂での灼熱のライブをお楽しみください。

 日時:12月7日(金) 午後6~8時
 入場料(当日):大人1000円、子供は無料
 ライブ後に懇親会あり。懇親会(飲み物と軽食)は追加1000円です。


≪第8回世界仏事大展示会≫

 会場:アモイ市 会展中心
 日時:10月18~22日

 19から21日の3日間、厦門の仏壇・仏具の展示会場を訪れた。ホールの大きさ、品目の数、参観者の多さなどに息をのんだ。2つの大ホールはナゴヤドームの10倍の広さ、千手観音像の高さは8m、木魚の横幅4m、お線香の長さ2mなどなど。約1000店舗、入場者1日あたり10万人という。日本で最も知られた仏壇店、株・小堀(京都市)もブースに出店、寺院用の瓦、金属屋根、日本の店舗が6つほどあった。

 マンション生活者など増えて、従来の大型仏壇が激減している日本の状況、また共産主義の中国国内でこれほどの大イベントが開催されていることに驚嘆した。約1割がお坊さん、中国・タイ・ベトナム・台湾・インドネシアの僧侶等を多く見かけた。日本人の入場者は浜田さん(兵庫・仏壇屋)、松本さん(大阪・仏壇屋)と私だけか?

 15年前に本堂の天井彫刻、欄間、持ち送り等の細工を請け負った徐錦仙さん(現・恵達工芸)が出店されていました。出会った当初は家内工場程度であったが、今では第2、第3工場及び本社ビルまでもって事業拡大し、社長としての座に位置されておられた。長年のご無沙汰と彫刻の製作を謝し、本堂完工に至った経緯を報告し、感動的な対面シーンとなる、次回、再会を約した。

[文章 住職]

 
«真宗門徒の心得 3か条≫

 ① 日々お内仏に向かいお勤めし、
 ② 毎年、お取越のご縁をいただき、
 ③ 手次(檀那寺)の報恩講には、お参りしましょう。

 ご門徒のみなさまの、御参拝を心よりお待ちしております。
 お斎の席にも、おつき下さい。






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発行所
真宗大谷派 称念寺
発行人 住職 伊勢徳