寺報 清風







            延期できない今

 先日、寝る間を削り映画『宮本武蔵』を久しぶりに観た。吉川英治の小説を原作とした全五部作の、昭和の名監督・内田吐夢の渾身の長編作品であり、主人公の武蔵を中村錦之助が、かつて知立を訪れた際に称念寺に宿泊された傑僧・沢庵禅師を、かの三國連太郎が演じている。武蔵が京都の吉岡一門を滅ぼした、一条寺の決闘後の場面で「我事において後悔せず」と断言した台詞に私は陶然とし、鑑賞中に思わず真似て呟いた。多くの男性が座右の銘にした名言であり、ああ人間とはそうした不退転の心境を理想とし、意義や道を求めてきたのだと改めて知らされた。たとえ人を傷付けても、私が私に生まれ、この時代を自分らしく善く生き、出会いも為すべきことも成した「後悔しない生き方」、端的ながら魅力的であり、言い換えれば「満足して死ぬ」ことであろう。だが人に煩悩が失せない限り満足などない。自力で人生を引き受けるという矛盾を、また悪を内包する人間が後悔せずという無責任を、改めて真宗の教えに尋ねる機縁となった。

 人は自らの現状に満足できる状態であれば、過去を悔やみなどせず、臆すことなく自信を持つ。剣豪の頂点とは異なるが、仕事が順調で家族も安泰、病気もせず、趣味やグルメも楽しんでいる方もおられよう。その根拠が辛いことをも乗り越え耐えた自分だからこそと、自身を信頼する。たとえ順風満帆でなくとも、私達は自分の存在価値を認められ、かつ自らも肯定したいので「私は私なりに頑張っている」と抗い納得もさせよう。難信である。今の私自身がそうであるように、一瞬輝いた過去もあるにはあるが、欲しても実現しなかった願望など既に諦め、紆余曲折や悲しい出来事は自らの糧と昇華させ、前向きに「こんなもんや」と受け止めるのだ。思い通りにならない一部人生は折り合うしかない、そういただかなければ自分を捌き殺しかねない存在である。しかしながら、そうした有り難さの感動が欠けた刹那的な自信や満足すら、二重に崩れ去るべき宿業の内にある。

 一つには人間関係の問題がある。特に不惑を過ぎると、無知な周囲に教えてやろうと自我と老婆心が渦巻く。苦労したぶん頑固で疑い深く、年を取っただけ分別も諄くしつこく、老い先短い我が身さえ良ければと傲慢で、当然だが若者には面倒臭いと嫌われる。不思議なことに、そうした姿は自分の眼にだけは映らず、鏡で気付いた時には周囲は皆知っていること間違いない。気に入らないことは他人のせい、正しいのはこの私だと、自分以外を認めず排他的な相で傷つけ合うばかりで、価値観こそが決定的な孤独を生み出す。なかには家族を含め人は皆違うと嘯き、口出しや否定を上手く律する人もあるが謙虚というより、怒るより黙る方が得策だという姑息な計算があるだけで、この世界や人を全肯定し引き受けたとは言い難い。戦争や災害、飢餓や環境で苦しむ、あるいは亡くなられた人々の悲しみを他所に独り善がりでは、大乗精神と言わずとも、そも関係性を生きる人間としての課題が残される。揶揄でなく現に、最も身近な人とすら分かり合うことができないまま、これまで生きてきたであろう。だからというのでないが、不思議と逆に、努力して成し遂げた勲章に胸を張る人より、自らへの悔悟の痛みに誠実さを感じる。その地平にこそ、目の前の人とのご縁を丁寧に大切にしたいという願いが根付くのだ。

 また、人生には受け入れがたい生命の事実、逃れられない老病死がある。やがて脳も躰も老い、健康も徐々に失われ、縁のままに最期は命を終えていく。遮二無二積み上げた人生も死んだら終わり、死なずとも愛する人を失えば意味が崩れ、健康も資産も家族も間に合わないのが生死の問題である。「まだわからんか」と仏さま。あと何年あるか、何ヵ月あるのか漠然とした不安は尽きず、いつ死ぬかわからぬまま、いつ死んでも良しとする生き方が今日できない。残り少ない貴重な日々の内実といえば「夜ご飯は何にしようか」、「肩の痛みがとれないか」、「金さえあれば」、「悩みを上手く解消できないか」と損得勘定の煩悩に塗れ、酒や映画に旅行と享楽を求めても虚しさが残る。まさに迷うべき無明の存在と云えよう。自分が自分を生きることの意味に迷い、何が本当に大事なのかもわからぬまま、ただ目先の生にしがみつく。懸垂しようとぶら下がり、できぬまま力尽き滑落するような、人生全体が成就しないという厳粛な事実である。そのことに目覚め、かつて真実を渇望し出家した若き釈尊の苦悩が想い起される。

 コロナ感染拡大防止の緊急事態宣言で、自宅待機が宣告された時期に感じたことがあった。旅行も飲み会も自粛、子供達の学校も休校、仕事も含め生活そのものが根底から覆されたなか、スーパーに食材の買い出しに行くと連日地元の人々が溢れていた。当たり前である。食事に風呂、排泄や睡眠を含め日々の暮らしを生きることは、延期も中止もできないからだ。私達も知り合いの顔や表情を識別できなくなった昨今、全国の保育園では保育士のマスク常用で、表情が見えない養育者との愛着不全で脳幹の発達が阻害され、無表情の乳幼児が増えている。寺では盆の墓参りや法事、法要の参詣者は如実に減りつつある。このままで良いのか、何かできることがないのかという疑問が燻る。コロナだろうが何だろうが、人の生活も、子供達の成長も、我々の死にも延期や中止などない。『正信偈』には「帰命無量寿如来」、年数の長さや内容の善し悪しで人生の価値を量ら無い寿に帰れと、「病気で死にたくない」もっと言えば「さすがに明日はまだ満足して死ねない」と思う人は、本当に命を生きたことにならないと云う。だから私達はいつも今、聴聞すべき存在なのだ。生死即涅槃。より良く生きる為でなく、念仏をして迷いの凡夫と照らされ、目覚め続ける場としてのいのちの尊さを共に確かめる報恩講とお取越を、私個人は今年も中止すまいと内心に誓ったことである。

[文章 若院]


欄外の言葉

 死にきれないまま人生が終わってしまうことを中夭という 佐野明弘

 全ての方々が諸仏となって還相回向し続けて下さっている 栖雲深泥


≪若院の伝道掲示板≫

 移りゆく季節 過ぎ往く人生 二度とない今

 害虫・損害・害悪 害を作り出す 私の都合

 生きること 死ぬことに 延期・中止なし

 注意すべし 自分にとっての右は 目の前の人の左


≪お取越のご案内≫

 約300件のご門徒に「お取越」のお勤めを順次ご案内しています。コロナ感染拡大の不安があったり、色々と気にされる方は電話連絡にて結構ですので、遠慮なく寺までキャンセルの申し出をしてください。また例年ご案内のない方も、ご連絡いただければお参りにあがります。

 なおマスク着用、ペットボトルのお茶を持参しますので、お茶やお菓子の用意はなるべくご遠慮ください。『赤本』でなく橙色の薄い勤行本にて、正信偈同朋奉讃をご一緒にお勤めいたします。


≪年会費について≫

 4000円、郵便振替。年会費をもって、本山の経常費、寺報の発行、日常のおあさじ・お香、火災保険などに充当します。最寄りの郵便局から、お振込みをお願いいたします。ただし報恩講の22、23日のみ、玄関受付でも納められます。振込用紙は持参して下さい。


≪小宇宙の精華インド宮廷絵画≫

 開場:岡崎市美術博物館(11月8日まで)。畠中光享氏は、大谷派の寺に生まれ、大谷大学卒(住職の3年後輩)の日本画家。インドから日本に至る仏教の展開に造詣が深く、仏陀釈尊・親鸞を題材にしたものが多い。奈良の興福寺では300年ぶりの中金堂再建事業のなか、畠中画伯が描いた14名の祖師の「法相柱」が大好評を得た。画家の畠中さんが約半世紀掛けた国内最大のインド細密画コレクションが概観できる。「楽器を持つ女」、「王の肖像」などなど、色彩と描線の美の魅力が鑑賞できる。

 10月17日(土)午後、雨降りしきる中、友人を誘って鑑賞に出掛けた。15世紀前後の細微な絵画が多くあって、後半にかけてはインパクトのある作品のみ、立ち止まって鑑賞した。じっくりと見るならば再度訪れるしかないと思った。それでも鑑賞した疲れは、ほど良い心地に酔いしれていた。

 ロビーに戻った折。異様な和服を召した人物を発見。なんと畠中画伯ではないか。私は初対面。ただし過去にお電話をかけたこと数回(坊守は畠中先生のお宅に一度お邪魔している)。緊張しつつもお話できた。日本画壇にあって近年の大躍進ぶりのご活躍に賛辞を贈った。約50日間この岡崎会場に来られるのは、この17日のみであると聞いて、たまたまの出会いにも驚嘆させられた。


≪東日新聞の記事≫

令和2年3月17日朝刊
【(4)知立・称念寺と莫言】

 称念寺の莫言関連碑など。20003年9月18日、莫言はイチョウの樹を記念植樹している。記念碑には4面にわたり以下のように記された。
● 碑右側 2003(平成15)9月18日 植樹
● 碑表 樹名 碧玉 公孫樹
● 碑左側 莫言 山東省 高密県
● 碑陰 小説「四十一炮」より

 2008年旧暦1月15日(新暦2月21日)「称念成仏」の4字を認めている。
 称念成仏 戊子元宵節 莫言
 山門に莫言が揮毫した「来=ようこそ」の石碑がある。

小池安利 (遼寧工業大学 日本語講師)

補:住職=小池さんが取材され、掲載された新聞の記事4回分を紹介してきました。写真は本堂新築事業が進められていることを知って、文豪が拙寺に贈ってくれたものです、深く謝す。同様の作品が玄関の入り口に、本堂後門にも掲げてある。特筆すべきは全号で紹介した『雪と面餅』であろう、子供達に語った童話はほかに5話あって、その原稿は大切に保管されています。いつかの機会に公開できればと思います。


 3月から連日多くに感染が報道され全世界への広がりとなっています。そうしたなか、愛知県内、知立市内はやや落ち着いているようでもあります。21~23日の報恩講は、お勤めさせていただきます。ただし恒例のお斎はなし。
 22、23日の午前10時半ごろから報恩講法座終了まで、本堂ロビーにてお持ち帰り用の「銀杏ご飯」と「粗品」をお渡しします。お帰りの折、お受け取りください。
 3密を避けて、終息までの不自由を共に乗り越えましょう。






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発行所
真宗大谷派 称念寺
発行人 住職 伊勢徳