寺報 清風







           国王の忘れ物


 思う存分に自我が発揮されるのが台所である。その独立国の主導権は我にあり。手始めは食材の買い出しから。元来食べることは好きなので、自分好みに食料を自在に調理する準備はさほど苦にならない。スーパーの中を闊歩しながら、頭の中でアレコレ計算しつつ、3日後までの食材を買い付ける。交代で台所を任された私には、調理の仕方や味付けの塩梅、炊き上がりの米の硬さやおかずの盛り付け、食器の洗い方とその拭き方、棚に並べて片づける配置に至るまで、「私なりの方法論」が詳細に確立されている。使用する雑巾すら、水の吸収力を鑑み選りすぐる。勿論、家族にテーブルを拭いたり箸を並べるよう手伝いを指示するタイミングも、スマホや宿題などの相手側の都合に関係なく、私の時間軸による。最後まで我流を貫き、そして無事完了するほどに「これで良し」と私の自我が満足する。

 その場は、まるで自分が王様であるかのように、自己の決定が善であり、法であり、正義となる。逆に、王国の秩序を乱す者、国王の思い通りにならない者、完全な支配に都合の悪いこと、それらは必然的に悪となる。私は決して潔癖で神経質というのでないが、小さな事が気に障る。例えば、予定していたオムライスの材料である冷蔵庫の卵が、自分の知らないうちに食べられてしまった、というような些細な事柄である。出来あがった折角の食事に対し、高校3年の長女は「今はいらないから後で食べる」などと平気で言う。こちらは温かい状態で美味しく食べて欲しいのに、何度も続くと怒鳴り声もでてしまう。また他の者が片付けた食器の置き位置が気に入らず、舌打ちして並べ直しもする。或いは、洗い終えた食器を水切りに捨て置き終わりとする中途半端さや、また炊飯器の内蓋を毎度は洗わずとも良しとする妻の方針にも腹を立ててみたり、全て洗い物が終わった後に子どものカバンから出てくる弁当箱や、それはもう、キリがないほど沢山の「邪魔」が存在する。私をイライラさせる「自我のこだわり」を少しでも捨てられれば楽になるが、生きることに於いて「私」と「国王たる我」は同義であろう。

 私達の人生における「生き辛さ」や「不満」の正体は、実はこんなところに在る。思い通りにしたいという煩悩が、思い通りにならない現実を受け止められず、心中の苦悩となっている。台所でなくとも、学校でも職場でも、長年連れ添った夫婦関係でも、自分の想いを理解してもらえなかったり、時に裏切られたりと、嫌な思いをさせられるたびに「あいつが悪い」だの「間違った奴だ」と他者にレッテルを貼ることで自尊心を納得させている。傍から見れば、自己中心的な評価基準だと明らかだが、本人からすれば理屈も通っており、また意図せず「そうせざるを得ないもの」、つまり自己愛による自分本位の正しさが、周囲には迷惑な善意をより一層駆り立てる。傷つきたくないので防壁を積み上げ、自分の考える善に没頭するあまり、隣の人の気持ちも見えなくなり、更には身近な人を力でねじ伏せ隷属させ、言うことを聞かなければ平気で排除していく。更に政治の世界では、法の下に特定の人にとっての利害と意思を強要し、また自己の理想を遂げるため侵略や戦争という手段で民衆を殺していく。人は悲しいことに、自らの世界観で意味に迷えば、自分が生きる価値をも否定してしまう。いずれも王たる人間の罪悪が織り成す「穢土」の様相は酷似している。その自在の王国を牢獄だと喝破し、その檻の囲いを超え出た処にこそ本願を見出したのがブッダ釈尊の教えであった。事実、好きな物を並べ、最も居心地を良くした自らの家庭で鬱々と虚しさを感ずる私達の日常があろう。

 この数か月間でウクライナでは、一体どれくらいの命が失われたのであろうか。決して兵士だけではなかったであろう。子どもや女性、老人までもが、各所で残酷に殺されたと想像する。二度と戻ることのない命。深い悲しみが何人の胸を引き裂いただろうか。彼らの命を奪ったロシア兵は自らが生きる為だったのか、逡巡しながら武器に手を掛けたのか。戦禍を逃れ難民となった人々は、いま何を想うのか。故郷を、家族を、生活を奪われた人々の恨みは、この先何処へ向かうのだろうか。「ポセイドン」と呼ばれる核魚雷を海中で爆発させることにより、敵国沿岸に高さ500メートルの津波を発生させる潜水艦の準備がロシア側に整ったとも噂されている。世界のリーダーの狂気と科学文明の影、国際社会の利害と思惑、経済中心の価値観とそして情報化社会の混沌で、すでに戦争犯罪や環境破壊を含む諸悪の自浄作用が無力化した時代が実現していよう。取り返しのつかない危機的状況にも慣れ「命を大切にする」、「他者と共に生きる」、そんな言葉の理想が白々しく、根底に願われた響きと悲しみすら見失ったこの時代を生きる私達は、いま何を拠り所として、何を大切にして生きるのか、何を残そうと死んでいくのか。「南無阿弥陀仏」の言葉から教えられる「私の宿業」とは何か、「国王」こそが見失ったものは何なのか。この混迷極まる世相の報恩講に、700年を経た聴聞の場に身を据え、共に浄土からの阿弥陀というはたらきに耳を傾けたい。

[文章 若院]


欄外の言葉

 自分も尊いかも知れないけれども隣の人も尊い 海法龍

 戦争で親を失った子供達が一番悲惨な犠牲者になる ヤヌシュ・コルチャック


≪若院の伝道掲示板≫

≪除夜の鐘・修正会≫

 除夜の鐘 大晦日午後11時45分より
 法要 元日午前0時 本堂にて


≪春彼岸法要≫

 日時 令和5年3月21日(祝・火) 午前8時・10時
 法話 三島清圓 師


≪信は荘厳より≫

 報恩講を執り行うにあたっては、全てが格調高く準備に入ります。平常は三具足であるが五具足に変わります。香炉・花瓶・鏧・打敷・仏飯器なども最も格調の高い什物・仏具を使用するため設置します。朱の蠟燭も20・30・50匁などが充当されます。

 荘厳の基幹は「おみがき」と思う。なるべく早く短時間で簡略化するなど、日頃の怠け心が問われてきます。横着な対応が身にどっぷりつかっている事に気付かされます。

 お内仏(本堂)の荘厳、かれこれ50年してきたことだが、全く至らない姿勢が厳しく問われます。「信は荘厳より」仏法聴聞に極まることなり(蓮如上人御一代記聞書)と教えられます。

[文章 住職]



≪報恩講≫ 

11月21日(月)18時より
法話:畠山 浄 師(七尾市)
法話の後に簡素な懇親会を予定しています

11月22日(火)午前8時・10時
法話:畠山 浄 師

11月23日(祝・水)午前8時・10時
法話:海 法龍 師(横須賀市)

 11月には最も大切な法要である報恩講が勤まります。10月中旬より順次、各家庭での報恩講「お取越」もご案内いたします。








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発行所
真宗大谷派 称念寺
発行人 住職 伊勢徳