寺報 清風












 かねてより念願であった仏教遺跡への旅をした。仏教は中国やタイ、日本を含む東アジア諸国だけでなく西方にも伝えられた。釈尊の教えはインドから隣国パキスタンに伝播し、その先のアフガニスタンにも仏跡がある。残念なことに、首都カブール北西のバーミアン遺跡では、2001年9月に起きたアメリカ同時多発テロ直前の3月、タリバンにより大仏像が爆破されている。その更に北西に位置するトルクメニスタン南東部のカラクム砂漠に、旅の目的地であるメルヴ遺跡がある。メルヴは紀元前6世紀頃からアケメネス朝ペルシアのオアシスの交易地として繁栄し、当時建てられた城壁跡が歴史遺産となっている。中国と欧州を結んだ古代シルクロード上のメルヴには、1世紀頃には仏教が伝えられたと考えられている。世界最西端の仏跡として寺院や仏塔の跡地があり、仏像や樹皮にサンスクリット語で書かれた経文入りの土器も発見されている。

 旧ソ連から独立を果たした、初代ニヤゾフ大統領の独裁国家であった「中央アジアの北朝鮮」とも揶揄されるトルクメニスタンへの入国は依然難しく、当然のことながら自由旅行は禁止、宗教活動や写真撮影すら厳重に規制されている。私は僧侶の身分を隠し、現地の旅行社に直接コンタクトし観光ビザを申請する必要があった。旅程の詳細、宿泊場所、職業、家族構成から出身校の履歴に至るまで個人情報をトルクメニスタン政府が精査し、移民局から個人宛の招聘状が与えられなければ入国はできない。入国後も州の旅行課や警察に顔写真付き書類の提出義務もあり非常に煩雑だ。ギリギリ出発の3日前にビザを取得できたことから、私はバスで関西空港に行きアラブ首長国連邦へ飛んだ。大都市ドバイでは簡素に観光、出稼ぎ外国人労働者の居住区に1泊し、中東イランへと降り立った。最新鋭のボーイング機を駆使し世界一だと評判のエミレーツ航空の乗り心地は上々であったが、朝方着いた首都テヘランの空港で到着ビザの発給を拒否され、旅の始まりに強制送還の危機に直面した。

 しかし偶然の幸運を得て入国でき、空港で出会った日本人男性とイラン人女性の夫婦に車で街まで送ってもらうことになった。かつてインドを放浪した際に西側から来た旅人達から「世界中で最も親切なのはイランとアフガニスタンの人々だ」と聞いていたが、私も様々なイラン人との出会いを通して心底実感させられた。日本語を少し話すこのおばちゃんも、今日は私の所に泊まりなさい、マンションもあるから次は家族を連れてきなさい、街を案内してあげますなどと、ペルシア語はもちろん数字すら読めず不安な私に有り難い言葉を次々にかけてくれる。砂埃の舞う道中を経て街中へ着くと、そこは4000メートル級の山々が連なる麓で、その壮大な雪山の風景と雰囲気の良い街並のテヘランに、私は一発で魅了されていた。この夫婦と息子、私の4人で市街最北端の洒落たエリアで食事を共にし、その後に中心部の安宿街の近くで降ろしてもらった。すでに夕方で両替屋も閉まっており、いつもなら酒を飲みに出掛ける時間だが、イランは敬虔なイスラム教シーア派が多数を占めており、酒類の販売は一切禁止されている。外国人のいない夜の街を徘徊するに留め、まずは身体を休めることとした。

 次の日の朝、反米国家の歴史を象徴する旧アメリカ大使館を見学し、その足で長距離バスの切符を買いに行った。私はテヘランから陸路で東方約1300キロに位置する国境を越え、その後にトルクメニスタンのマリーから首都アシュガバットへ車で移動し、その空港からトルコのイスタンブールへと抜ける旅程を予定していた。昼間はバーザール(巨大市場)に行き最高級ペルシア絨毯で目の保養をし、午後8時にはバスに乗り込み14時間かけてイラン東部のマッシャードへと向かった。1泊2000円程度の宿を探しチェックイン、早速この聖地の中心である8代目エマーム・レザーの聖墓ハラムへと出掛けた。サウジアラビアの聖地メッカには異教徒は近づくことすらできないのだが、このモスクは問題なく参拝することができる。数多くのムスリムが巡礼に来ており、女性は皆チャドルという黒い布に身を覆っている。コーランの朗唱を聞きながら、見惚れるほど美しい天井の鍾乳石飾りのエイヴァーン(水色の門)をくぐり、何万ものイスラム教徒に囲まれるのは初めてのことで、緊張して彼らの祈りの場へ足を踏み入れる。霊廟の最も中心である黄金のドームの下にある聖墓の周りでは、信仰心篤い巡礼者達の熱気と祈りの叫びに圧倒され、私は深く感銘を受け立ち尽くすのであった。

 このマッシャードから更に東のサラフスへの移動が今回の旅の懸念材料であった。マッシャードより西側からもトルクメニスタンへと抜けられるのだが、厳冬期には山岳地帯国境が雪で閉鎖されるなど情報が錯綜していた。無計画な僻地放浪を旅のスタイルとする私としては珍しく、熟慮して国境越えを確実にすべくルートを決めたのだが、未だタリバンの支配するアフガニスタン北部国境にも近いサラフスへ行く旅行者は皆無で、どの地図にもバス停が掲載されていないのだ。日が変わり早朝、、タクシーを捕まえ旅行中徐々に覚えたペルシア語で「テルミナーレ・オートブス・べ・サラフス・コジャース(サラフス行きのバス停はどこか)」と聞くと、気の良い運転手は周囲の人々に丁寧に尋ね回ってくれる。道中は現状で一般の旅行者が行くことのできる最果ての地で、半日かけて荒れ果てた土と岩だけの不毛の山々を抜け、終点サラフスでバスを降りしばらく歩き回った後、街外れにある唯一の宿へと辿り着くことができた。地元の若者達と知り合い、笑い話をしながら振る舞われたチャイ(紅茶)がとても美味かった。

 翌日も早起きして国境地点まで歩いて行き、4時間かかった出入国手続きを経て私は遂にトルクメニスタンへの越境を果たした。腹も減っていたが道端のラクダや羊飼いの集落には寄らず、そのまま車で5時間かけメルヴに行くことにした。坂と砂で立ち往生した車を降り、仏像の発見された城壁南東の丘へ歩いて行く。衣も数珠もなかったが、私は一人静かに合掌、念仏して短い経文を唱えた。かつて命懸けで真実の教を求め仏跡巡礼の3万キロを旅し、小説『西遊記』の主人公となった三蔵法師・玄奘もこのメルヴ北側の捕喝国、現ブハラ(ウズベキスタン)までも来ていたことを想うと、悠久の時を経て同じ仏道を歩ませてもらっていることが有り難かった。仏教の教えは、自分とは何かという根源的な問いに向き合った人々の歴史である。様々な煩悩が尽きず、前向きに楽しみながらも不安や諦めに満ちたこの人生に、私自身も道を見出すことができたのは、多くの先達の歩みがあってこそであった。すでにカラクム砂漠の彼方へと真っ赤な夕日が沈みかけており、ぼーっと眺めていると不思議と目頭が熱くなった。

[文章 若院]

● 書き下ろし版も掲載しました。写真も少しアップしています。



«春の彼岸法要 講師紹介≫

 一昨年前まで元同朋大学・学長の尾畑文正先生に出講いただいていましたが、本年は先生のパートナーである尾畑潤子さんに依頼できました。三重県いなべ市、専称寺の坊守さんです。


≪本堂工事の進捗状況≫

 1月から大工諸氏は7名に増え、外部の主要柱間の壁面の耐震施工を始める。すでに施工済みの制震用の板壁上に「不燃・荒壁パネル」を取り付けていく。さらに小屋組内にも「耐火パネル」を設置した。中旬から屋根工事を受注した(株)カナメも作業に着手した。野地板の上に「防水シート」を貼っていく様子は、大屋根の勾配が大層きついので、高所の作業を見る私の方がハラハラしています。

 2月から5名の大工さんが造作、柱に彫られたホゾに、嵌め込み加工した長尺・厚板の「敷居」を収めていった。最長幅は3間もある。敷居が取り付けられた後に、床板材を貼っていきます。床板材は三明松(中国、福建省産)、アフリカ欅、チーク材(ミャンマー産)の3種の堅木が、内陣・外陣・玄関間・裏部屋などの各所に適材適所に割り付けられて納まっていきます。板と板の継なぎ目は、貼り合わせる板に溝を彫って隙間を埋める「本ザネ加工」を施して、精巧に張り合わされます。最長幅は3間半。貼り終えた床板の上には段ボールが敷かれて、全面保護・養生されます。

 次の工程は、天井部分に取り掛かる。格天井の回り戸の用材は、加工されたものから順番に八尾市の仏具製作所に搬送されます。2週間後にうるし塗装を終えて、再び工事現場に搬入されます。3月中旬から天井部分にも着手します。60センチ角の天井板は、牡丹紋、寺紋、花鳥風月の柄が彫り込まれた彫刻板。これが内陣に100枚、外陣に400枚が収められます。

 屋根工事は経歴豊かな宇内さんが筆頭責任者として担う。計4名の職人さんが一宮支社から通って作業にあたっています。素屋根内にある屋根工事ですから、雨が降っても休まず進められていきます。2月25日、鬼瓦に充当する「馬・カンタカ=FRP製」の模型の検査に出向きました。3月末に出来上がり4月初旬にカンタカ1対が搬入されます。5月上旬にはステンレス屋根工事が終了する予定。ガス管の取り付け、電気系統の配線工事なども同時進行しています。

 称念寺の木造本堂の出来栄えは、棟梁の力量にかかっていると、つくづく思い知らされています。古橋・田中の両設計士の図面が底本にあるが造作されるのは森等棟梁(52)。卓越した力量は、原木から用材への切り出し、更に仕口加工しての組み上げなど設計済みの現場を見れば納得させられます。優れた匠グループに参加いただき、木造本堂の造作のご縁をいただいたことです。(岐阜県の名工、木造伝統建築家として昨年受賞された)現時点の堂宮大工さんは、岐阜(3)、滋賀(1)、広島(1)の方達です。全員が宿舎に泊まり週末に帰宅されます。朝8時から夕方5時までの作業となっていますが、連日6時頃まで約1時間延長くださっています。

 9月には木部工事が終了。外枠石工事、内陣の仏具工事等が続く工程が組まれています。明年の3月下旬に、落慶法要を厳修できますよう進めています。


«句仏忌 2月6日≫

 東本願寺23世・俳人、大谷句仏(本名光演)の忌日。京都俳壇の育成に貢献した。「口あいて 落花眺むる 子は仏」、「勿体なや 祖師は紙衣の 九十年」。伝統味を守った格調正しい句風であった。愚峰とも号した。


«蓮如忌 3月25日≫

 本願寺8世、中興の祖である。室町後期、越前吉崎に移住後、教勢の拡充がめざましかった。著書のうちでは、折々の消息(手紙)をまとめた『御文』が有名である。


 なつかしき 鐘の蓮如忌 曇りかな     大谷句仏

 諸々の 花咲く 蓮如上人忌      畠山蕪仙子





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2016年3月号

夕暮れの西方仏土
発行所
真宗大谷派 称念寺
発行人 住職 伊勢徳